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共感力を養うために歴史はいいトレーニングになるのでは、という話


ちょっと調べたんですが、いわゆる「〇〇ハラスメント」は40種類もあるそうですね。

最近では、相手がぐうの音も出ないほど理路整然と説明することを「ロジハラ」といい、いやはやそこまできているのかと額に汗を感じたものです。。

こうしたハラスメントブーム(こういう表現も何か問題あるかも汗)が起こる時代で、いったい何が求められているのかといえば、やはり「共感力」ではないでしょうか。

下記のサイトによると、共感力とは、「人の気持ちを汲んで寄り添うことができる力」のことだそうです。

自分の気持ちに寄り添ってほしいと願う人が多いのか、それとも人の気持ちに寄り添えなさすぎる人が多いのか、何が火元かわかりませんが、お互い歩み寄り理解を示し合う姿勢を持つほうがこの世界は確かにやさしくもなり過ごしやすくもなります。

そんな社会人として大切な共感力をいかに養うか? ということですが、このトレーニングに歴史は使えると思うわけです。

何せ遠いむかしの人たちは今の時代とはまったく異なる価値観で生きてきた人たちなので、そこに共感アンテナを働かせることはけっこうなエネルギーを要します。

たぶん、若い人はおじいちゃんやおばあちゃんの考えにもついていけない部分があると思うんです。そのおじいちゃんやおばあちゃんも、自分たちのおじいちゃんおばあちゃんの考えを理解するのは大変だったはずです。このおじいいちゃんおばあちゃん世代というのは、現代の若者にとってはおそらく明治か幕末を生きた世代になるでしょう。「よき人とほめられむより今の世は物狂ひぞと人のいはなむ」(佐久良東雄)みたいな時代です。ますますわかりませんよね?

けれど、もし自分がその時代に生まれて生きることになったら……と想像してみると、今とまったく違う時代を生きた人たちが、なぜそのような生き方をしたのか、わからないまでもその立場に寄り添おうとする感情は育つのではないでしょうか。

おおむかしの人の生き方や感情に触れ、寄り添う努力をしたとしても、確かに「共感」まではいかないかもしれません。ただ、「そういう生き方や考えもあるんだな」と、視野は広くなります。その広くなった視野は多様な意見をキャッチするアンテナとなり、実生活での人づきあいに応用できる部分もあるのでは、という話です。

ついでにいえば、歴史の知識や役に立つ教訓・人生訓なども習得できて一石二鳥になります。

では具体的にどんな歴史の共感力トレーニングがあるのかということですが、歴史の本を読むのがいちばん身近な方法かと思います。歴史小説や時代小説を読んでみるというのもいいでしょう。ただし小説として面白過ぎる本は意識しなくても勝手に共感できるようなつくりになってますので、それだとあまり意味ないかもしれません。

共感スキルを磨くための歴史本として、普通に読んでいたらまったく共感できないだろうという本をあえて選ぶなら、「古事記」「日本書紀」はおすすめです。浮世離れはなはだしいぶっ飛んだストーリーが多いからです。

たとえ何を考えているのかよくわからない人物の話でも、もう全身全霊を使って強力に共感意識を働かせれば、何か理解できるところが見つかるものです。試しに日本書紀からひとつ、「なんじゃそれ?」という説話を拾ってみます。正直、よくわからない言動が出てきますが、それでも相手の立場に寄り添う、共感できる部分はないか探ってみよう、という心構えで読んでみると、今まで見えなかった世界が見えてきます。

その話とは、垂仁天皇の段に登場する、「垂仁天皇の皇后・狭穂姫が兄と夫との間に挟まれ苦悩する話」です。端的に言うと、骨肉の三角関係が展開されるという暗くて重苦しい話です。この説話の中心人物である狭穂姫はいったい何を考え、どうしたかったのか、正直腑に落ちない部分があります。

まず、兄の狭穂彦王(サホヒコノミコ)に「俺と旦那のどちらを選ぶんだ?」と迫られます。それに対し狭穂姫、「兄です」と答えます。兄は「じゃあこれでブスッといったれ」と匕首をわたして妹の本気度を確かめます。姫は困りますが、仕方ないと思い切ったのか、高宮に上がって天皇を膝枕します。油断させてその時をうかがおうというわけです。しかしいざとなっては勇気が出ず実行に移すことができません。感情が高ぶった姫は泣きながら兄に言われて天皇を殺そうとしたことを白状してしまいます。当然のごとく激怒した天皇、狭穂彦王を討つために兵を動かします。慌てた姫は屋敷をけ出して兄が立てこもる城に逃亡。愛する妻がいるとなれば夫も無理に攻めて来ないだろうとの知恵からでしたが、それでも天皇の怒りは収まらず、強い意志を示して攻撃を開始。兄妹が籠る城は炎に包まれました。気持ちが夫に通じず無念の姫は兄とともに自害して果てたのでした。何と言いますか、あまり救いのない悲しい結末です。

兄を慕うあまり一度は心が間違った方向へ傾きかけた狭穂姫、しかし夫を愛する心も彼女の中では真実です。にしても、普通に読んでると意地悪な心が頭をもたげ、揚げ足取りをする自分が現れます。つまり完全に自分軸で物事を考えているからそうなるのです。

「何で最初に兄を説得しなかった?」「これは全部兄に言われてやったことですってばらしてるやん。そんなことしたら天皇怒るってわかるやろ」などなど、日本最古の歴史書相手にツッコミハラスメントをしてしまう自分がいます。けれど、それは自分が彼女の立場じゃないから簡単にいえること。自分がその立場だったら、同じような振る舞いになったかもしれない。心は必ずしも理屈通りに動くとは限らない。いや常に理屈で動いたらそれこそ非人間的と言わねばなるまい。

そんなふうに自分の考えや感情は脇に置いて、心を真っ白にして狭穂姫に寄り添う。狭穂姫の立場を考えるとき、ああ、もう切羽詰まって、どうしていいかわからなくなったんだろうな、そんなとき人間は確かに矛盾した行動に走る、思えば自分もそんなことあった……となれば、相手に寄り添うと同時に我が身を振り返る自戒にもつながります。自分の中にだってそうした弱さやもろさはあるのだと再発見するきっかけになるのです。

自分本位で物事を見ず、その人にはその人の何かしらの事情があってそう動かざるを得なかった、というふうにゴムのような伸縮性をもって相手を理解しようと思えば、狭穂姫の言動も分からなくはありません。感情移入のすき間は狭くてもその奥から霞のように薄く光る真実を見出すことはできます。

ちなみにこの狭穂姫の悲恋話は日本書紀のなかでもとりわけフォーマルなもので、まだわかりやすいほうです。基本的に古事記・日本書紀は荒唐無稽な話ばかりだと思ってください。だからこそ共感力を磨くトレーニングになるかも? という話です。この記事を書いた私の立場も共感してもらえたら幸いです(笑)











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