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福沢諭吉が「お金に関してこんなにも“わからずや”」だった話【歴史小話】

福沢諭吉のお金にまつわる話をシェアします。この人はお金に関してとんでもない“わからずや”でした。

現代の一万円の顔としておなじみの福沢諭吉ですが、本人のお金に対する考え方と行動は、それはとても立派なものだったようです。そこには彼なりの揺るぎない美学が貫かれていたようにも感じます。福沢が晩年に語ったものをまとめた『福翁自伝』を読むと、福沢はお金の貸し借りはぜったいにしない主義で、「金がないならできるまで待つ」を信条に生きていたことがわかります。

息子の学費援助を辞退

明治のはじめ、福沢が慶應義塾(現・慶応大学)を創立した頃の話です。当時福沢には、七歳と五歳になる男子がいて、将来的に子どもたちの洋行と西洋の学問教育を考えていました。自分の子どもは将来立派な学者になって欲しいとの願望を持っていたのです。ただ、そこで立ちはだかるのがお金の問題です。子どもふたりを外国に行かせて高等教育を学ばせるには、巨額の学資を捻出する必要があります。いくら福沢が有名な学者といえ、それだけの学費をこの先確保できる保証はありません。「息子らをぜひとも外国へやって学問修業させたいが、お金が足りない。あと十年すればその日がやってくるというのに。それまでにお金が増えるようなことがあるのだろうか」福沢はそんな悩みを会う人会う人にこぼしていたと言います。

そんな福沢のところへ、横浜のとある豪商が、「坊ちゃんの学費は私が面倒を見てあげよう」と申し出てきました。福沢にとってはまさに渡りに船、天恵ともいうべきありがたい話です。ただ、困ったことに、この豪商はかつて自ら経営する学校の監督に福沢を据えたいと打診してきて、福沢は事情によりこの話を断っていました。息子の学費援助を受けるには、学校監督に就任する条件を飲まなければなりません。福沢は大いに悩み、考えました。

ここで学校監督の話を引き受ければ、あのとき断った自分の判断はいったい何だったのか、ということになる。お金のためなら自分の考えと行動を曲げてよいはずはない。そもそも息子を外国へやり、学者にしたいとの意向は、自分の勝手な願望に過ぎない。もし自分にお金がないせいで子どもに望む教育を授けられなかったとしたら、それは子どもたちの運命だ。お金ができれば洋行させてやるが、できなければそれまで。福沢はそのように言い聞かせ、豪商からの申し出を断ることにしました。

この時代、多くの親が、子どもを官費留学生にして海外渡航させたい願望を持っていました。そのために政府への口利きやら、あっせんやらに立ち回る親もいたくらいです。官費留学生になれば学費はすべて国持ちなので、自分たちは身銭を一切払わず子どもたちを留学させることができます。世間に向けて鼻が高くもなります。自分の子どもを官費留学生にしたいばかりに奔走する親たちを「乞食のようで実に見苦しい」と酷評したくらいの福沢ですから、ここで前言を翻して豪商のお世話になるのは、信条と良心が許さなかったのでしょう。

結果的に、この判断は正解でした。福沢はその後、洋書の翻訳や著述、言論の分野で活躍し、息子たちの留学に困らないほどの収入を得ました。それどころか、甥っ子の洋行費の面倒まで見ることにしました。しかも自分の子どもは後回しにし、たった一人の甥っ子のためだからと、彼のために多額のお金を使ったのです。その甥っ子というのは中上川彦次郎という人で、彼はロンドン留学から帰朝後に工部省に出仕し、外務省の書記官を経て時事新報社長、山陽鉄道社長、三井銀行専務理事を歴任するなど、順調に出世街道を歩んで叔父の期待に応えました。

「よくあのとき金をもらわなかった。もらえば一生気がかりが残っただろう。今でもおりおり思い出すが、大事な玉にキズをつけなかったような心持ちだ」

福翁自伝

約束は約束。損得勘定で反故にせず

福沢諭吉がお金に対して謹厳実直だったことを示すエピソードをもう一つ紹介しましょう。これは慶応三年、すなわち明治維新が起こる前年のお話。中津藩士として江戸在勤だった福沢は、この年の冬、芝にある有馬家の中屋敷四百坪ほどを三百五十五両で買い取る商談を成立させました。このとき、武家と武家との約束ということで、証文の取り交わしなどはなく、お互いの信義を前提とする口約束で話はまとまったと言います。

代金を手渡す約束をした十二月二十五日、福沢は屋敷買取の周旋をしてくれた木村摂津守の用人・大橋英次を訪ねます。ところが、屋敷の門は表門から潜り戸に至るまで固く閉ざされていて、門番に頼んでも開けてくれません。ようやく開けてもらえたと思ったら、深刻な顔をした大橋が飛び出してきて、「大変です。三田の薩摩屋敷に武装した庄内藩士が押し入り、火の手が上がりました。今にも戦争がはじまろうとしています」と、寝耳に水の事態を告げて福沢を驚かせました。この事態こそ、後の鳥羽伏見の戦いの導火線となる「薩摩藩邸焼き討ち事件」でした。

福沢もこれは屋敷の代金どころではない、となるかと思いきや、「時にあの屋敷を買い取る代金を持参したから、先方に渡しておくんなさい」と緊急事態は脇に置いて取引を前に進めようとします。大橋はもちろんとんでもないといわんばかりにその手を押し返し、「このような事態になった以上、屋敷や罹災するだろうから一銭の値打ちもなくなる、この話はご破算だ」とまっとうな説明をして福沢に理解を求めました。それでも福沢は「今日渡す約束だから、この金は今日渡さねばならぬ」と、こちらもかたくなに約束の履行を求めて一歩も譲ろうとしません。

大橋は腹の中でわからぬ奴だと地団駄を踏んだことでしょう。「約束も時勢によるものだ。この大変なときに屋敷を買うバカはいない。たとえ買う者があっても三百五十五両を半値にするに違いない、ただの百両でも喜んで売るだろう」と福沢に言って聞かせます。これはむしろ福沢の利益を考え、親切心から説いているのです。しかしそんな正論を聞かされても引き下がらないのが福沢諭吉という人間でした。大橋の手に金を押しつけながら、「世の中に変乱が起きようが起きまいが、約束は約束だ、証文はないが、人と人とが話をしたのが何よりの証拠だ」福沢はとうとう説き伏せ、大橋にお金を握らせたのでした。

当時を振り返りながら、福沢は言います。「昔の武家根性で、金銭の損得に心を動かすのは卑劣だ」。確かに武士は金勘定をよしとしない価値観を持っていましたが、ここまで律儀を徹底する例も珍しかったのではないでしょうか。

お金の価値観は「母譲り」だった

強情頑固なほどお金の扱いに律儀だった福沢諭吉。「金銭の不義理はぜったいにしない」は、実は福沢家の家訓でもあったようで、とりわけ母の影響が強かったようです。福沢は『福翁自伝』の中で、次のような少年時代のエピソードを紹介しています。

福沢が十三、四歳の頃の話。ある日、母からとある人のところへお金の返済に行ってほしいと頼まれます。母が言うには、「福沢の家はかつて大坂屋という廻船屋に金二朱を借りていたが、それが十年ほど前に掛け捨てにしてくれてお金は返さなくてよい話になった。金二朱をもらったようなものだが、誠に気が済まない。武家が町人からお金を恵まれ、これをただもらって黙っていることはできません。今やっと融通がついたから、お前今から返しにいってお礼も述べてきなさい」

福沢少年が大阪屋に出向いてお金を渡そうとすると、先方は「もはや古い話です。どうぞ心配におよばず忘れてください」と受け取りを辞退します。それでも福沢少年は渡さねばならないと粘りお金を押しつけるようにして置いて帰ってきました。母の言い付けをちゃんと守ったのです。「こんな経験が少年の時から私の頭に残っているから、金銭については横着できません」と語っています。

一万円札に彫られた福沢の肖像は2024年4月の新紙幣導入をもって終了となるんですね。だからこんな話を書いたわけじゃなく、福沢諭吉という人のマネー観が大変に律儀で徹底しているのがおもしろかったので紹介しました。とても真似できるものではありませんが、お金に主導権を握られない生き方というのはとても重要で、見習えるものなら見習いたいです。みなさんはどのように感じましたか?


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