落語家の修行とパワハラ【一部無料】

落語家の「修行」というと、「パワハラ」的なものを連想する人もいますが、修行とパワハラは同じではないですし、修行の中に必ず「暴力」が存在するというものではありません。というか、現代においては、修行といえども、暴力はふるってはいけません。←当たり前です。日本は法治国家であり、「落語の世界は治外法権」な訳ではないのですから。

ひと昔前に「学校の体罰はOKか?」という訳のわからない話をテレビで普通にしていましたが、今回はそれと同種の部分もありますが、少し複雑な業界事情(?)があるので解説します。
→ちなみに、体罰の話の時は、「学校は治外法権で、学校の中なら、日本国の法律を無視してよいのか?」と思っていました。当然ダメです。
それと一緒で、今さら言うまでもなく、落語界で師匠が弟子に暴力をふるうのは法律で禁止されています(笑)・・・当然、弟子が師匠を殴るのも禁止です。そこに「師匠」とか「弟子」とか言う単語を当てはめるから変な感じがするだけで、人間が人間を殴るのは法律で禁止されております。

しかしながら、

噺家社会において、まだ「パワハラ肯定論に近い感覚」を持つ人がいるのはなぜでしょうか?

本日は、この理由を解き明かします。
まあ簡単に言えば、

そんな人は「アップデートできてないだけ」

なんですが(笑)、それでは話が終わってしまいます。
そもそも、そういう人たちが「落語の修行にパワハラが要る!(あっても問題ない!)」と言うてしまうのはなぜかというと、

●「修行とは何か」が分かっていないから
   or/and
●「パワハラとは何か」が分かっていないから(暴力とパワハラの区別含め)
   or/and
弟子としての哲学」と「師匠としての哲学」を区別できていないから
 =「師弟関係とは何か」がわかっていないから
(噺家としての精神論を語る時に、思わず「修行をする人間=弟子」としての精神論のみを語ってしまい、「後輩へ伝承する人間=師匠」としての精神論を考慮していないから)

だと思います。ここらを詳しく解説していきます。

ちなみに、この記事では、「修行は厳しくないといけない」などの風説も否定することになります。そもそも「厳しいかどうか」も主観でしかないですからね・・・。


「修行とは何か」(そもそも論)

そもそも落語家が「修行」という言葉を使う時、実は色んな意味で使っています。色んな意味で使うがゆえに、落語家それぞれによって、「落語家の修行とは、どういうものか」の定義が異なるだけでなく、毎回使用する時の意味も変わり、ご互いが曖昧な意味のままコミュニケーションを取り合うことで、どんどん意味が変質し、気づけば「修行にはパワハラがつきもの」という意見まで、誰かの中で発生してしまっているのが現状です。

ここをまず、整理しましょう。

★落語家の修行:他の芸道との違い

資本主義社会において、「落語家の師匠と弟子」というのは、
他の茶道・華道・舞踊・柔道・剣道・ピアノ等の「先生と生徒」とは全く違います。ある種、他の芸道の多くは、たとえ「師匠と弟子」と表現したとしても、法的な契約関係(経済的観点)からすれば、「先生と生徒」という意味であることがほとんどです。

①落語家は、徒弟制度:昔の職人さんの世界

師匠が弟子に実技や慣習を”無料で”教え、落語の仕事をした時には、弟子は師匠から報酬(お金)も貰えます。そのかわり、師匠の用事をします。
※大阪の年季中(≒東京の前座時代)は、師匠が365日全ての衣食住を提供する場合はバイト禁止で師匠とほぼずっと過ごします。一方、常に一緒にいなくてよく、師匠が衣食住の全てを提供しないなら、バイトをしてもOKみたいな感じです。
(今の大阪は後者が主流です)

②お稽古事や学校は、資本主義

生徒が先生にお金を払い、その対価として実技を教えてもらいます。
舞踊などは「師匠と弟子」とは言いますが、金銭の流れとしては、事実上「先生と生徒」の関係となります。
(その生徒さんが実技で生計を立てていく方法については私は知りません。)
※あくまで「柔道や剣道」など含めてお稽古事は、その技術レベルを上げることが目的であり、「その技術を習得して商売をする」ことが本来の目的ではないです。お茶やお花や舞踊なども基本はそういうスタンスです。
ただ「稽古屋の師匠ができる資格(師範?)」を持った人が稽古屋や道場を開き、生徒を集めて、商売をすること“も”可能というだけです。
→別に師範であっても、稽古屋をしない人もいるでしょうし、経営ノウハウは、自分の先生からあまり教えてもらえないのがほとんどだと思います。

つまり、落語家は

師匠から「商売の種(落語)」を教えてもらい、
師匠から「商売の仕方」を教えてもらい、
師匠が「取引先(仕事をくれる相手)」にもなり、
師匠が「他の取引先(他の噺家など)」を紹介してくれる

のです。それゆえ、芸歴の浅い時からも落語家は一定の経済的道筋がつきやすく、落語家は辞めにくいとも言えます。
その意味で、他の芸道やNSCタレントと大きく違うように思います。
(まさに、昔の職人さんに近いということです)

★修行を資本主義的な観点で考察すると…

落語家システムを、あくまで資本主義的な観点で=お金の流れで考えてみると、本来は、

師匠→指導(レクチャー)→弟子 :本来、指導に対価が発生
弟子→師匠の用事をする→師匠 :本来、用事に対価が発生

です。しかし、指導と用事に対価は発生しません。
それゆえ一瞬、

この「指導の対価」と「用事の対価」が相殺されているので、
「無償の指導と無償の用事」が発生しているのでは?

と思いかねませんが、

実は圧倒的に師匠がもらうべき対価の方が大きいので
「師匠はタダで教えている」ということになります。


というのも、この「師匠の用事」の中にも

”師匠からの指導”

が含まれているからです。

そもそも、「師匠からの指導」の中には、
高座で落語をパフォーマンスするための実技指導だけでなく、

落語世界のルールを学ぶ上での実技指導や知識提供
落語家としてのカルチャーを共有するための指導

も含まれています。
「落語世界の共通ルール・カルチャー」として、

●後輩が先輩の着物をたたむ
●他の人の鳴り物を打つ(基本は後輩が先輩の出囃子などを打つ)
●その場で公演が最適になるように動く
(→通常マニュアル・最低限の臨機応変マニュアル・根本原理)
●落語世界の挨拶の仕方・行儀作法
●公演運営の基本ルール

などを師匠から弟子は学びます。これらは

「落語会や寄席に行ってからすべき仕事の基礎知識や作業技術」
 (対価が発生する仕事を行う知識や技術)

ですが、これを覚える(日常的に出来るようになる)には、
師匠の用事をすることでしか体得できないことが多いです。

もちろん寄席で覚えることも沢山あるのですが、ある意味、
全くズブの素人が寄席で上記の全てを覚えようとすると、
他の人間の邪魔になります。
それこそ仕事には対価が発生しますが、
「業務内容も理解せず、そこで勉強をして、他人の邪魔になることをする」ことを、仕事とは呼びません…(そんな人には対価が払えない)。
何も知らない素人が寄席や落語会でイチから仕事を覚えるとなると、

「いやいや覚えてから来いよ!」
「出来てない人間に、なんで対価を払わなあかんねん!」
「対価がなかったとしても、他の仕事の邪魔しとるがな!」

になってしまいます。それゆえ、まずは師匠の用事をすることで、「落語家としての仕事(今後発注される仕事内容)」を覚えていきます。
つまり、その用事をすることで、色んな噺家やお客様から仕事をもらえるようなノウハウを学ぶことができるのです。

↓↓↓↓↓↓

ビジネス用語で言うと、師匠から教えてもらえる知識や技術は、

①落語の知識や技術=B to C(Business to Consumer):お客様に直接喜んでもらうビジネスの知見

だけではなく、

②落語世界で暮らす知識や技術=B to B(Business to Business):他の落語家(やお囃子さんなどの業界関係者)に喜んでもらうビジネスの知見

もあります。そして、この「②落語世界で暮らす知識や技術」の中に、落語会運営や寄席運営を最適化させる基礎知識も入っているだけに、漫画家や声優や俳優やタレントと違い、スクール制度になりにくいのです。
落語教室をどんなに整備しても、その後、必ず弟子修行をしないとプロの落語家になれないというのはこのためです。業界ルールや公演運営の流れを理解しないと落語家集団として、落語家全体の経営上、差し障りが出るためです。

結論として、
多くの「師匠の用事」の中には「指導」も含まれているということです。
完全に「これは指導ではない」と言えるものが、純然たる「用事」です。
しかし、純然たる「用事」と呼べるものはそもそもほとんど無いですから、

用事と指導の区別が明確にはつきにくいと言えますし、
基本的に、多くの用事は指導の一環
とも言えます。
それゆえ、

「指導が全く含まれない用事」

というのは限りなく少なく、

「師匠が弟子から本来もらうべき対価(指導料)」と
「弟子が師匠から本来もらうべき対価(用事代)」とを比べると、

圧倒的に「師匠がもらうべき対価(指導料)」の方が大きい

のです。だから資本主義的な観点で見ても、師匠は弟子に無償で教えているということになります。

★落語家の修行がスクール制度にできない理由

どんな芸能でも、技術や知識の部分だけを抽出できれば、その部分においては、スクールや稽古屋(道場)にすることが可能です。
漫画家や声優などの場合は、オーデションやコンクール等を経て、発注企業との一般的な商取引を行います。その商取引をいくつも重ねていく上で、「B to B 」=商売を自分で勉強していくのだと思います。
(もちろん業界の人から教えてもらうこともあるでしょうが、それも含め、業界の中にいることで、漫画家や声優は「B to B」の知見を自分で増やしていくのだと思います)
ですから漫画家や声優の学校は、「B  to C の技術」の基礎を教えるというスクールが成立し、そこを卒業し、経済的な成功をした人がプロになれます(税務署的なプロ)。

ちなみに、空手やそろばんなどの場合は、技術が「B to B」どころか「B to C 」からも離れた技術です。つまりプロなどは存在しない技術だけの芸能(?)です。そうなると「技術」を持った人が誰かに教える場合、スクール形式になります(有償・無償はともかく)。有料のスクールを作る場合は、その技術を持った人が「商売の部分(B to C)」を自分で考えてスクールを開きます。この場合も当たり前ですが、空手道場やそろばん学校で、「スクールの開き方・経営のノウハウ」は教えてくれません。(料理学校はあっても、飲食店経営学校は基本は見かけないのと一緒です。)
技術を持った人が自分の経営センスで、道場主になるだけです。それによって一部の人が税務署的な「プロの先生」になるだけです。自分で「B to B」「B to C」を勉強していくことで「税務署的なプロ(自営業者)」になっていくと言えます。

このように、「技術は教えるが、その技術を使った商売の仕方は教えない(面倒を見ない)」というのがスクールの基本です。あくまでスクールは「何らかの技術」を教えるところです。

その意味で落語家も、今「落語教室」を開く噺家が増えています。
しかし、落語教室で落語を習っても、それだけでは絶対的に「落語家にはなれない(伝統的なプロになれない)」です。もちろん「税務署的なプロ」になることは可能です(落語を披露してお金をもらうのは自由ですから)。もっと言えば、税務署的なプロになるなら、落語教室に行かなくてもそもそもなれます(笑)落語家には、実は法的な意味での「プロの資格」が無いですから。
落語教室は、伝統的なプロの噺家が落語(の技術)を教えてくれますが、「落語家として暮らす方法」は落語教室では教えてもらえませんし、「伝統的な落語家集団の資格」ももらえません。一方、落語家の修行をすると、「落語の技術(B to C)」だけでなく、「伝統的な落語家集団におけるルール(B to B)」や「落語家としての商売の方法(B to B&Cの両方を含むノウハウ)」まで学べます。そして、これらを学ぶ権利をもらうことが「弟子になる」ということです。

その意味で、他の芸能スクール・養成所は、「プロ」を養成するから、落語教室よりも高額なんだと思います。

生徒は即座に、教えているプロの商売敵になりますから…。
漫画家や声優やお笑いの養成所で得られる技術は、それだけで「プロになれる技術」だからです。ただ、それで最終的に職業にできるかどうかは(=生計を立てられるかどうかは)、運とか才能とか色んな要素が発生します。
つまり、「B to C」をスクールで習えば、後の「B to B 」の部分はもう市場原理が働く競争社会という話です。

しかし、落語家は違います。落語教室で落語を習っても、生徒には商売のノウハウがないので、大した商売敵=競争相手にはなりません。ある意味、プロからすれば安心です。だから月謝も安いのかもしれません(笑)落語教室は「落語」を教える場ですが、「落語家が何をする仕事か」を教える場ではないからです。
そして「修行」をした人間とそうで無い人間を、落語家は大きく区別するのは、落語家の修行は「商売敵を商売仲間に変換できる」からです。修行をした落語家が増えることで集団としての落語家市場は大きくなり、得だからです。落語教室の生徒さんが指導を受けるのは有料ですが、弟子は師匠からお稽古をつけてもらっても無料です。それこそ、落語教室の生徒さんの方が、業界ルールを知らないだけに、実は「影響力は本当に弱いですが、かすかな商売敵」になるのです(→その人たちが、ボランティア活動で落語をあちこちにしに行ったら、落語家の仕事が減る可能性がありますから…そして自分に得が生まれにくいから笑)。
しかし弟子修行をした噺家は業界ルールによって、その噺家が活動することで他の噺家に仕事を増やせるので(落語という集団芸を発揮させるノウハウを知ってるので)、他の噺家は落語市場を広げてくれる「商売仲間」になるのです。同業者が増えても商売敵にならないので困らず、かえって助かるという話です。
つまり、落語家の修行とは、師匠および噺家仲間から「B to C(落語)」だけでなく、「B to B(落語家として商売&生活していく方法)」も教えてもらい、ともに豊かになろうとするということです。その意味で、噺家の世界は、競争社会の要素は少し減って共生社会の要素が出ます。

これは、ある意味、漫画や声優などの市場と違い、落語市場は経済規模が小さく、また落語家は、仕事の相手先が一般企業でなく、同じ落語家であることがほとんどだからです。だから「B to B」の相手先が一般的な商取引ではなく、落語界独自の取引が発生し、業界ルールが生まれます。
だからこそ、落語教室で落語を習っても「絶対にプロになれない」という制約がつくとも言えます(笑)「この業界ルールを知ってるかどうか」「同じカルチャーを持っているかどうか」を持って「伝統的なプロ」とみなすので、「修行」が必要となります。
別にこれは「嫌がらせ」とか「排他的同業者組合(ギルド)にしよう」とかそういう悪い意識からではなく、共通ルールがないと落語会運営が効率よくできないからです。公演運営をするための結果として落語業界は「排他的同業者組合(ギルド)」になっているだけです。

※実際、ギルド的ルールを知らない噺家を「あいつは修行をしていない」と揶揄することがあります。しかし、落語家であることは間違いないのです。結局、公演運営は、ギルド的ルールを出演者の一定数が知っていれば行えますので、そのように揶揄される人であっても出演可能なのです。
そのギルド的ルールを知らない人でも「集客がある」「顧客満足度が高い」となれば、ルールの知識を知らなくても、スルーされやすいです(苦笑)。←他のメンバーが公演の進行を行えばええのですから。
大阪では、早くにメディアで売れた人で業界ルールを知らない人が発生した場合、「あいつは修行してないからな(笑)」みたいな発言をよく聞きますが、周りの噺家もその人を「もちろん噺家とは認めているし、ギルド的ルールを知らなくても、お客を連れて来るからええんちがう?」みたいな感覚でいます。その人達は、公演に出演するのが「ギルドにおける役割」みたいなものだからです。
⇒その意味で、「ギルド的ルール=公演運営の基礎知識を知ること」を、狭義の意味で「修行」と言うことがあります。

※ほかにも、大阪では、「今は、修行中なんで…」という言い方をする場合があります。
大阪では、入門して大体2~3年の間「年季修行」というのがあり、
師匠の家に毎日通うなどの期間であり、この期間は仕事を勝手に引き受けてはダメな期間です(仕事に行く場合は師匠の許可が必要です)。
いわば未成年期間で、東京の前座の身分に近いです。
上方落語界では、「年季修行」のことも「修行」という省略表現で表す場合があります。

それでは、あらためて「修行」の本来の意味を考えてみましょう・・・。
(噺家が使う「修行」の用法としては、「修行の本来の意味」「ギルド的なルールを知るという狭義の意味」「年季修行の省略意味」の3つが主だと思います。この後の解説は「本来の意味」についてです。)

★修行の本来の意味

ここまで読んでおわかりのように、、、
指導(レクチャー)と業務(用事や仕事)を完全に分割できれば、現代的な資本主義経済の営みです。
しかし、落語界は「用事と指導が分けられない」のです
そして、ここからは私の意見ですが、

修行とは「指導=レクチャー」ではないということです。

指導とは「教えること」です。
修行とは「行を修める=学ぶこと」です。

指導は、師匠が弟子に教えることを指します。
しかし、学ぶこと=修行は、「弟子が師匠から(実は勝手に)会得すること」です。
そして、師匠は弟子に学べる機会を与えてるだけに過ぎないのです(だから師匠は弟子を同行させたり、他の噺家に紹介し、他の落語家との交友を持たせるようにアシストします。)

師匠が弟子に用事をさせる場合、
その「師匠が用事をさせることが修行」になってるのではなく、
「弟子が用事をすることで、何かを学ぶことこそが修行」なのです。
(用事はあくまで課題…みたいな話です)

修行とは、「師匠が与える課題」を指し示してるのではなく、
「弟子が修める行(ぎょう)」の意味
だと私は思っています。

こうなると、ありとあらゆることが「修行」になります。
師匠や落語界で自分が暮らしていくこと全てが「学び」であり、
そこから「学ぶこと」が修行
なのです。
(噺家は一生修行と言いますが、そういう意味だと思います。)

もちろん、物理的に師匠が弟子に「落語の台本・技術」を教えることもあります。それは完全な「レクチャー(指導)」です。
しかし、実は、それだけで良いなら、修行など不要です。スクールで良いとも言えます。(落語教室と同じです)

師匠が挨拶の仕方を教えることもありますが・・・。
例えば、自分が高座に上がる前には他の出演者全員に「お先に勉強させて頂きます」と言い、高座を終えると「お先に勉強させて頂きました」と伝えます。これは「礼儀」「儀式」と捉えることもできますし、楽屋に出演者が入れ替わりで挨拶することで「今、出番がどこまで進行しているのかという番組の進行状況を、出演者全員が情報共有する作業」とも言えます。

このように業界の作法は、落語家のカルチャーに見えていますが、公演運営システムとしてよく出来た制度だったりします。

それゆえ落語家の業界ルールは、実利としては無意味な「伝統的儀礼なだけ」なのか、「実利を含む仕事や技術」なのかを判別するのは非常に難しいです。
そして、全ての業界ルールに「論理的理由をつけて説明」していたのでは、ルールの習得に時間がかかります。

我々落語家は、「業界ルールを論理的に理解すること」が目的ではなく、「お客様に落語を届け、お客様に満足してもらうこと」が目的です。
そしてその目的を達成するために「業界ルール」があるのです。

ですから師匠は弟子に全部が全部、イチイチ説明することはしません。師匠であれ、弟子であれ、自分で業界ルールの意味を考えたいと思えば、自分で考えれば良いだけです。業界ルールの意味のうち、自分で「変えたい」と思えば、自分の営みの範囲内において、その業界ルールを変えれば良いのです。そして変更する人が増えた場合は、そっちのルールが主流になっていくでしょう。ただそれだけです。(実際、各師匠方によって、師匠が教える業界ルールは違います。それゆえ、ルールもある種、千差万別とも言えます。)

ここで重要なのは、師匠が弟子に「(挨拶を)教える」のは「指導(レクチャー)」です。しかし、それは修行とは言いません。
あくまで「修行」とは「弟子側が学ぶこと」です。
つまり、「師匠から直接指導されたものを体得」するだけではなく、「指導内容や師匠の指導の様子から、師匠の考えや技術や仕組みを会得」することも「修行」なのです。

「修行」とは「弟子としての哲学」なのです。
師匠は「弟子と認めた人間」を自分のそばにおき、自分の行動を弟子に見せることで「学びのチャンス」を与えるのです。また「弟子と認められること」が「(噺家)仲間である資格」であり、「伝統的なプロの噺家」と認められることになります。
それによって、弟子は、多くの他の噺家の楽屋や舞台袖で勉強することや交流することができ、「学びのチャンス」を得られます。
つまり、師弟制度とは、「師匠は学びのチャンスを与える」というシステムです。

師匠が弟子に何かさせるのは「課題」ではあるものの、師匠目線からすれば、その課題は厳密には「修行」では無いです。
あくまで弟子目線になった時に「修行と思う」だけ…という主観的な話なのです。
ただ、全ての師匠は「弟子」を経て師匠になるので、思わず「弟子の主観」を思い出して、自分が与える「課題」を「修行」とつい呼んでしまうのです(苦笑)。
もちろん多くの師匠方は「その課題を学びにして欲しい」=「修行になってるであろう」と思っているのですが…。

師匠からの直接的指導ということによって、弟子が学ぶ場合も勿論ありますが、師匠の普段の用事や行動からも弟子は学ぶのです。
何かの用事をこなしていると、
実はそれが「こ、これは!(落語家人生に役立つ!)」ということに気付くこともあります。
いわば、
映画「ベスト・キッド」で、床磨きやワックスがけをしてたら空手が強くなるみたいなもんです(笑) 
簡単に言うと、師匠と過ごすことによって「人間の気持ち」や「行動予測」などを弟子は自分で学んでいくのです。さらには年月とともに、自分の師匠や先輩方が「衰えていく様子」も見ますので、師匠の存在そのものからも「自分の未来の過ごし方」を学んでいけるのです。

いわば、「衰えた部分をどうフォローするのか」「急逝するリスク」「時代の変化において、人間はどういう思想で、どういう選択をしていくのか」などを学ぶことができます。そしてもちろん、そういう師匠を反面教師にしても良いのです。
つまり、師匠とは、

「課題を与える教師」としての役割だけでなく、
存在自体が「学びの教材」であったりします。

そういう意味においても、弟子にとって師匠は「全てが有難い」存在とも言えます。

ここで重要なのは、まず「自分の師匠になって欲しい」と相手を先に認定したのは、「師匠ではなく、弟子」ということです(!)。
その後、申込を受けた側が「弟子にします」という許可を与え、師匠と弟子になるのです。
つまり、弟子が師匠にリスペクトを持って、初めて「修行」が始まると言えます。

それゆえ「弟子としての哲学」は、「師匠は絶対的な存在」であり、
「師匠に殴られても構わない」という気持ちを持つぐらい、弟子は師匠にはリスペクトを持っているということになります。
(ただ、もちろん師匠は弟子を殴ってはいけません)
その意味で、弟子が師匠にリスペクトを持たなくなった時点で、師弟関係は崩壊すると言えます。

ですから、本来、師匠と弟子はいつでも解消できる関係なので、「パワハラ」という言葉を使用するのは、私はやや不適切に感じます。

「パワハラ」という言葉を使用する弟子は、被害者しぐさ(弱者コメント)をしてるだけみたいに見えてしまいますので…。一方で、どんだけ暴行を受けても「師匠の愛情です!」と澄んだ目で言い続ける弟子はカルト宗教に洗脳された人にも見えます…。
つまり、法的に問題があるのは、あくまで「暴言・暴行」の有無であり、師匠は「暴行と暴言」はしてはならないという法律的な話があるだけです。(学校問題も「イジメ」と言わずに、「暴行や暴言などの不法行為」の有無で考えるべき…みたいな話です。)

だからこそ、暴行の有無に関わらず、師弟関係は、師匠が弟子を「辞めさせたい(破門)」と思えば解消できるし、弟子も「辞めたい」と思えば解消できるだけの間柄です。その関係性に金銭のやり取りも契約も無い訳ですから、師弟関係とは本当に「精神的な繋がり」しかないのです。

それこそ逆に、師匠が弟子に暴力をふるいまくって瀕死の重体になり、師匠が警察に捕まっても、弟子がその人を師匠と最後まで思っておれば、師弟関係は解消されません。暴力を禁止しているのは日本国の法律であり、「暴力をふるわれても構わない」と弟子が思うのは個人の思想=内心です(ただ、被害者がどう思おうが、法律的に「暴力をふるってはいけない」というだけです…。)それゆえ、師匠が刑務所に入ろうが、弟子が師匠と思っていれば、その人は師匠であり続けます。「法律で禁止されていることをすること」と「師匠であり続けること」とは別だからです。
(と言って、法的に悪いことはするのは良くないのは当たり前です。)
いわば血縁関係の兄弟が、刑務所に入ろうが、兄弟のままなのと同じです。ただその関係性が、師弟の場合は「精神的なつながり」なだけです。そして血縁関係と違い、師弟関係は、いつでも「ご互いが縁を切ることのできる関係性」なのです。
もちろん「刑務所に入ったこと」で、精神的なつながりが無くなった場合は、師弟関係は解消されます。しかし、それは「精神的なつながりが無くなった」ことで解消されるだけであり、「刑務所に入ったこと」が理由ではないのです。師弟とは、客観的事実によってではなく、主観的事実によって解消されるものです。もちろんその「主観的事実」を相手に客観的事実として名言した時に解消されるのですが・・・。
(書けば書くほど、師弟関係とはヤバい宗教と似た感じになりますが。。。)

それゆえ「修行が厳しい」と思うのも「弟子の主観」でしかないのです(笑)「嫌なら、いつでも辞められる」訳ですし、同じ課題をやっていても「しんどい」「しんどくない」は個人の感想なので、感想は皆バラバラになります。だから、「厳しくないと修行にならない」とか言うのはウソです。
(もちろん噺家の哲学として「修行は厳しくないといけない」と主張する人がいるのもわかりますが、それは個人の哲学や方針であり、実際「相手が厳しいと思うかどうか」は内心のことなので、判断できません。)

<参考YOUTUBE>

私のYOUTUBEで「落語家の修行」について、解説している動画が
あるので、よければどうぞ。
(※最後のエンディングコメント=テロップなどにも、本日の核心部分があったりします)

↓落語家の年季修行<笑福亭たまYOUTUBE>

↓修行の効果(前編)<笑福亭たまYOUTUBE>

↓落語の修行の効果(後編)<笑福亭たまYOUTUBE> 


長々と書きましたが、

「パワハラ肯定論に近い感覚」を持つ噺家が発生するのはなぜか?

については、ここまで来ると、おのずと答えが導き出せそうですが…。
単純に「弟子としての哲学」を「噺家の哲学」と同一視しているからだと思います。ある意味「弟子としての哲学」と「師匠としての哲学」は違うのに、ゴッチャにしてるとも言えます。噺家は「弟子を持っていない人」もいるので、つい「師匠としての哲学」が抜け落ちがちです。
さきほど書きましたが、弟子からすると、

自分は「師匠に殴られても構わない」という気持ちを持つぐらいのリスペクトを持っている

と思っています。それゆえ、弟子である自分は
「パワハラされても問題ない!それが弟子の心構えだからだ!」
という気持ち
があるがゆえに、

弟子側の目線でのみ考えると、「パワハラ肯定論」になってしまうのです。

しかし、これはあくまで「個人の主観的な感覚」=「内心の自由」であって、これが「業界ルール」にはなっていないとも言えます。
というのも、落語家は「弟子」だけではなく、「師匠の目線」も存在するからです。では、自分が師匠の場合「弟子はそのような思想を持つべき」と思うでしょうか?(笑)

たとえ「弟子がそういう思想を持つべき」と師匠が思ったとしても、その思想を持ってるかどうかを師匠は確かめてはいけません(笑) 
→確かめると法律違反になりますから(笑)

そもそも「弟子が殴られても大丈夫と思ってるか」を師匠が判定するためには、その師匠は弟子を殴らないと確かめることは不可能ですから(笑) 言葉ではいくらでも嘘はつけますので、その思想の有無を確かめる方法は殴るしかないのです(殴ってはいけませんけど)。判定方法として、弟子を殴った後、弟子が「辞めます」と言えば「あぁ、そこまで俺にリスペクトが無かったんやな」ということですし、「辞めません」と言うなら「お、コイツ、俺が思ってた思想なんやな」ということです・・・、しかし、それでは結局、師匠は法律違反になってしまいます。(そして、弟子がその思想を持っていないとわかるやいなや、訴訟問題になりかねませんので、凄いリスクのある判定方法です。)
それゆえ、現代において、師匠側は「弟子が殴られても良いと思うほどの気持ちを持っているか」を確かめることは不可能となります。
つまり、師弟関係とは、師匠に「破門」の権利は勿論ありますが、実は「師弟たらしめているのは、弟子側のリスペクトの気持ち」でしかなく、その「弟子の気持ち」を本当に知っているのは実は「弟子」本人だけなのです。それこそ「修行」が、師匠の指導内容がどうであれ、「弟子が学ぶ」だけの話であり、肝心の「学ぶ気持ちがあるかどうか」を知っているのは弟子本人だけなのと一緒です。

この状況において、「師匠としての哲学」は、どうなるのでしょう?

例えば、、、、

●入門志願者(→弟子)は、弟子としての心構えを持っていると信じる
 …リスペクトされているととにかく信じる
●入門志願者からリスペクトを“感じた”場合は、弟子と認める
 (感じなくなれば破門)…主観による判断をする
●入門志願者や弟子に一定の基準を課し、条件をクリアしない場合は
 入門を許可しない、あるいは破門にする。…客観的判断を採用する
●入門志願者(→弟子)については、
 違法行為をしない限りは誰でも弟子にする…ある種の客観基準
●入門志願者や弟子は、とにかく愛情をもって育てるべきと思う
●入門志願者は噺家仲間であり、落語を発展させていく後継者なので大事にすべきと思う
●弟子は弟子の好きなようにさせるべきと思う
●弟子?勝手に育つやろうと思う
●弟子がいると箔がつく(???)とそれだけ思う
 …etc.

というぐあいに、「師匠としての哲学」は多種多様になります。
つまり、「師匠としての哲学」は当然「弟子としての哲学」とは異なるはずです。→人によって「師匠としての哲学」は「弟子としての哲学」と一致しないということです。ここで、「弟子としての哲学」だけを「噺家の哲学」と思い込む人は、パワハラ肯定論になってしまうと言えます。
ただ、師匠になる落語家は全体からすると一部ですが、落語家は全員が弟子修行をした人間なので、全員が「弟子としての哲学」は持っています。それゆえ「師匠としての哲学」があることに気づかない噺家が一定数発生してしまい、それがパワハラ肯定論の噺家になりがちです。そしてどっちの思想を持つ人の割合が多いか、あるいは「噺家集団のうち、上の芸歴の方々がどっちの思想か」というのが、業界全体の空気を作ると思います。その意味で少なくとも、今の上方落語協会においては、業界全体の空気としては、パワハラ肯定論にはなっていないです(よかった、よかった(笑)…そのかわり、昔はその割合が逆転してるのでパワハラ肯定論だったと思います)

ここまでが「修行とは何か」の概論です。
ここから、最近話題の落語界のパワハラ問題についての、色んな噺家が思う「モヤモヤ」ポイントを解説します。

お客様からすれば

「何で噺家はパワハラ問題で訳のわからないことを言うたり、モヤモヤしたりしてるのだろう…。パワハラなどダメに決まってるはずなのに・・・(モヤモヤする意味がわからん)」

という疑問があると思います。しかし、噺家はモヤモヤするのです。
それを解説いたします。
ただ、これ以下は、非常にセンシティブに感じる人が増えるので、有料とさせて頂きます。また、いつもの2倍以上の長編ですし、読解力も必要(?)なので、値段は高めにしました。すいません。

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