諸野脇 正

哲学者  ・Twitter https://twitter.com/shonowaki  ・ブログ http://shonowaki.com/

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最近の記事

【「道徳」批判10】〈気持ち〉を訊いても事実は明らかにならない

 「道徳」教材の「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」は事実に反していた。  サリバン先生はヘレン・ケラーの体に触れることが出来なかった。しかし、教材文では、事実に反してサリバン先生がヘレン・ケラーに触れているのだ。  事実に反する教材で授業が出来るのか。この教材を使った授業はどうなっているのか。心配である。  授業案を見る。  中心発問では、困難があっても最後まで努力してやり抜くことの大切さを考えさせるために、ヘレンを抱き締めたときの気持ちについて問いかける。……〔略〕

    • 【「道徳」批判9】 サリバン先生はヘレン・ケラーに「愛撫」を拒まれていた

       原理的な事実を確認しよう。     ヘレン・ケラーの体に触れることが出来なければ、サリバン先生は詰んでしまう。  ヘレン・ケラーは盲聾であった。目が見えず、耳が聞こえないのだ。そのヘレン・ケラーにどうアクセスすればいいのか。視覚と聴覚は無いのだから、他の方法を使うしかない。実際には、触覚を使うしかない。ヘレン・ケラーに触れる形式でコミュニケートするしかない。  だから、ヘレン・ケラーの体に触れることが出来なければ、サリバン先生は教育活動が出来ない。つまり、サリバン先生は詰

      • 【「道徳」批判8】 野獣のようなヘレン・ケラーをサリバン先生はどのように教育しようとしたのか

         ヘレン・ケラーは野獣のようであった。  野獣のようなヘレン・ケラーをどう教育するか。  そこに、サリバン先生の〈工夫〉があった。  しかし、「道徳」の教材文ではその〈工夫〉が分からない。  教材文は次の通りである。  次の日の朝食のときのことです。ヘレンは、いきなり、お皿のものを手づかみで食べ始めました。そして今度は、アニーのお皿にまで、手をのばしてきました。お父さんもお母さんも、ただだまって見ているだけです。  アニーは、思いきって、ヘレンの手をはらいのけました。ヘレン

        • 【「道徳」批判7】 正しい子供を「抹殺」する「道徳」授業

           道徳的に正しい子供がいたら授業はどうなるか。  教師「ヘレンの家庭教師になることを決めたとき、アニーはどのようなことを考えたでしょうか?」  正君「先生。アニーは実在の人物です。アニーが何を考えたかを想像するの人間を無視しています。想像するのではなく、調べるべきでしょう」(注1)  教師「……」  道徳的に正しい子供がいたら授業はどうなるか。  正君「先生は、教材文にある『目の不自由な人たちのために役に立ちたい』という部分を挙げてもらいたいのでしょう。しかし、私は五冊

        • 【「道徳」批判10】〈気持ち〉を訊いても事実は明らかにならない

        • 【「道徳」批判9】 サリバン先生はヘレン・ケラーに「愛撫」を拒まれていた

        • 【「道徳」批判8】 野獣のようなヘレン・ケラーをサリバン先生はどのように教育しようとしたのか

        • 【「道徳」批判7】 正しい子供を「抹殺」する「道徳」授業

          【「道徳」批判6】 なぜ、「道徳」授業では事実を調べないのか

           「道徳」教材は人間を尊重していない。  当然、その教材に基づく「道徳」授業も人間を尊重しないものになる。(注)  例えば、文部科学省は次のような授業案を例示する。 【主な学習】 ①ヘレンの家庭教師になることを決めたとき、アニーはどのようなことを考えたか。  ・私にできるか心配だ。  ・目の不自由な人たちのために役に立ちたいという夢を実現したい。    (『「私たちの道徳」活用のための指導資料(小学校)』文部科学省、154ページ)  教師が「アニーはどのようなことを考え

          【「道徳」批判6】 なぜ、「道徳」授業では事実を調べないのか

          【「道徳」批判5】 ゴルゴ13を「やさしいお母さん」にしてしまう

           「道徳」教材においてサリバン先生は全くの別人にされていた。人物像を「捏造」されていた。  「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」でサリバンは障害者教育を志したことになっていた。「目の不自由な人たちのために役に立ちたい」と「決意」したことになっていた。しかし、それは事実ではなかった。  アニー・サリバンは障害者教育を志した事実は無い。むしろ、サリバンは「人を教えることなどまっぴらだと思っていた」のである。教師になるなど「まっぴら」だったのだ。  サリバン先生の人物像は歪めら

          【「道徳」批判5】 ゴルゴ13を「やさしいお母さん」にしてしまう

          【「炎上」の原理】 「将来、泣いてもいいわけ?」と言う「資格」が無かった江角マキコ氏

           江角マキコ氏は国民年金のイメージキャラクターに起用された。  そして、次のような啓発広告が作られた。  江角マキコ氏は「将来、泣いてもいいわけ?」と言っている。国民年金の保険料を納めないと「将来、泣」くことになると訴えている。つまり、保険料を納めるように訴えている。  しかし、驚くべき事実が発覚した。江角マキコ氏は国民年金の保険料を納めていなかったのだ。17年にわたって納めていなかったのだ。  当然、これは大きな騒ぎになった。  ポスターやCMで国民年金のPR役をつとめ

          【「炎上」の原理】 「将来、泣いてもいいわけ?」と言う「資格」が無かった江角マキコ氏

          小山田圭吾氏にパラリンピックの音楽を担当する「資格」があるか

           大学院におけるディベート的授業でのことである。  私は「小学校では児童・教師全員が名札を付けるべきだ」と主張していた。(名札賛成の立場で論ずることになっていたのである。)  すると、相手は言った。  そんなに名札が重要ならば、なぜ、あなたは名札を付けていないのですか。    これは「資格」を問う論法である。次のように問うているのである。  お前にそれを言う「資格」があるのか。    名札の重要性を主張するならば、自ら名札を付けるべきである。名札を付けていない人間に「全員

          小山田圭吾氏にパラリンピックの音楽を担当する「資格」があるか

          【「道徳」批判4】 「道徳」は人間を尊重しない

           「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」には「サリバン」と呼ばれる人物が出てくる。しかし、この人物は言葉をなかなか教えない。怪しい。    「おまえ、本当はサリバン先生ではないな。」    サリバン先生なら、ヘレン・ケラーにがんがん言葉を教えているはずである。直ぐに仕事を始めているはずである。この「サリバン」は怪しい。  警戒しながら、読む。  すると、疑わしい部分が見つかる。  アニーは、このとき〔手術で視力を取り戻した時〕、目が見えるということがどんなにありがたく、また

          【「道徳」批判4】 「道徳」は人間を尊重しない

          【「道徳」批判3】 サリバン先生がヘレン・ケラーに言葉を教えない不思議な教材文

           映画『奇跡の人』を見たことがある人も多いだろう。  ヘレン・ケラーにサリバン先生が言葉を教える話である。目と耳が不自由なヘレン・ケラーに言葉を教えるのは大変な困難であった。その「闘い」を描く映画である。とにかく、最初からサリバン先生は言葉を教え続ける。(注1)  しかし、「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」(『わたしたちの道徳 小学校5・6年』)のサリバン先生は言葉をなかなか教えない。教材文の半分を過ぎても言葉を教えない。    「おまえ、サリバン先生だろ。早く言葉を教え

          【「道徳」批判3】 サリバン先生がヘレン・ケラーに言葉を教えない不思議な教材文

          【「道徳」批判2】 「道徳」は事実を大切にしない

           「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」の第一文は次の通りである。  アニー・サリバンは、生まれつき視力が弱く、一時は失明したこともありました。 (『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、22ページ)  何の変哲も無い文である。  しかし、相手は、支点の無いポンプで水を汲み上げるシュールなイラストを載せる「道徳」である。  関わった者全員を「ゾンビ」にする「道徳」である。関わった者全員をいいかげんにする「道徳」である。  油断ならない。  伝記を調べてみる。次

          【「道徳」批判2】 「道徳」は事実を大切にしない

          研究仲間が「ゾンビ」になってしまった?

           本屋で「道徳」授業の本を見る。「ヤバイもの見たさ」である。つまり、研究のためである。  すると、何ということだろう。     古い研究仲間の名前を背表紙に見つけてしまったのだ。  なぜ、「道徳」の本を書いているのか。ダークサイドに落ちてしまったのか。  「道徳」に関わってはいけない。「ゾンビ」になってしまう。次の文章で説明した。  「道徳」に関わった人間は全員が「ゾンビ」になってしまう。全員がいいかげんになってしまう。  おそるおそる本を手に取る。  研究仲間は「ゾンビ

          研究仲間が「ゾンビ」になってしまった?

          【「道徳」批判1】 「道徳」は人を「ゾンビ」にする

           奇怪なイラストである。  次のような間違いに気づく。     1  ポンプに支点が無い。   2  ウッドデッキに水を流している。   3  サリバンがヘレンの手に「water」と綴っていない。  なぜ、「支点が無い」のか。なぜ、「ウッドデッキに水を流している」のか。なぜ、「『water』と綴っていない」のか。  これはヘレン・ケラーが言葉を理解した有名なシーンのイラストではないのか。これでは水遊びのイラストである。その前に、「支点が無い」のにどうやって水を汲み上げるのか

          【「道徳」批判1】 「道徳」は人を「ゾンビ」にする

          思想は文体に宿る

           前回、事実が伝わる文体の重要性を説明した。「プラグマティズム的な文体」を説明した。  例えば、指導案(授業案)であれば、指導言を授業で言う通りに書くのである。次のようにである。(注1)     【発問】 バスの運転手さんは、どこを見て運転していますか?    これならば事実が分かる。  これに対して、「運転手さんの仕事を考えさせる」などと概括言葉でまとめてしまっては事実が分からない。事実が分からなくては授業の検討は出来ない。  事実が分からない文体では、授業の仕方を伝える

          思想は文体に宿る

          相田みつを氏はプラグマティズム的ではないんだなあ

           「人間観」をテーマにした連載を六回にわたって続けてきた。  六回続けて、だいぶ疲れてきた。  読者のみなさんも疲れてきたのではないか。  そこで、今回は別のテーマの文章を書く。「プラグマティズム的な文体」についてある。  「えっ。それは一つ前に繰り返し論じていたテーマだ。」と思った人がいるかもしれない。  その通りである。  哲学とは、くどいものなのだ。  くだらない哲学はある。しかし、あっさりした哲学は無い。  あっさりしていたらどうなるか。     言葉の裏づけに

          相田みつを氏はプラグマティズム的ではないんだなあ

          【人間観6】なぜ、反省文に効果があると思うのか

           中村うさぎ氏は自分が立てた誓いを守れなかった。  このような状態は一般に「分かっているのに出来ない」と表現される。スーダラ節的には「わかっちゃいるけど、やめられない」である。  このような状態を見た人はどのように考えるか。次のように考える人が多いだろう。     中村うさぎ氏は反省が足りない。    「分かっているのに出来ない」のは「反省が足りない」のだと解釈するのである。  中村うさぎ氏は「もう二度と、シャネルでムダ金を遣いません」と誓った。それにも関わらず、シャネルで

          【人間観6】なぜ、反省文に効果があると思うのか