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【「道徳」批判7】 正しい子供を「抹殺」する「道徳」授業

 道徳的に正しい子供がいたら授業はどうなるか。

 教師「ヘレンの家庭教師になることを決めたとき、アニーはどのようなことを考えたでしょうか?」
 正君「先生。アニーは実在の人物です。アニーが何を考えたかを想像するの人間を無視しています。想像するのではなく、調べるべきでしょう」(注1)
 教師「……」

 道徳的に正しい子供がいたら授業はどうなるか。

 正君「先生は、教材文にある『目の不自由な人たちのために役に立ちたい』という部分を挙げてもらいたいのでしょう。しかし、私は五冊の本を調べ、ネットでアニーの手紙を調べましたが、アニーがそのように決意した証拠はありません」 https://pic.twitter.com/GdNEqjPBxi
 教師「……」

 道徳的に正しい子供がいたら授業はどうなるか。

 正君「アニーが『目の不自由な人たちのために役に立ちたい』と決意した証拠は見つかりませんが、逆に決意していないという証拠が見つかるのです。『道徳』教材自体が間違っているのではないでしょうか」(注2)
 教師「……」

 道徳的に正しい子供がいたら授業はどうなるか。

 正君「アニー・サリバンは実在の人物なのですから、決意してもいないことを決意したと教えるのは人間無視です。アニーが何を考えていたかをきちんと調べる必要があるのではないでしょうか。調べないで勝手に想像するのは不道徳です」
 教師「……」

 正君の言う通りである。
 現状の「道徳」授業は、道徳的に正しい要求をする子供が現れたら成立しない。「マジレス」する子供が現れたら成立しない。「きちんと調べましょう」と要求するだけでつぶれてしまう。
 しかし、現実には「道徳」授業はつぶれていない。「道徳」授業はおこなわれている。
 では、道徳的に正しい正君はどうなってしまうのか。
 
  道徳的に正しい正君は「抹殺」される。
 
 正君の意見を採り上げていては、馴れ合いが成立しない。馴れ合いに基づく「道徳」授業が成立しない。(注3)
 だから、正君の意見は無かったことにされる。黙殺される。
 正君は「抹殺」されるのである。
 「道徳」は道徳的に正しい意見を「抹殺」する。
 「道徳」とは誠に不道徳なものである。


(注1)
 
 次の文章を参照のこと。


(注2)

 次の文章を参照のこと。


(注3)

 「馴れ合い」については次の文章を参照のこと。


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