見出し画像

【「道徳」批判1】 「道徳」は人を「ゾンビ」にする

 奇怪なイラストである。
 次のような間違いに気づく。
 
  1  ポンプに支点が無い。
  2  ウッドデッキに水を流している。
  3  サリバンがヘレンの手に「water」と綴っていない。

 なぜ、「支点が無い」のか。なぜ、「ウッドデッキに水を流している」のか。なぜ、「『water』と綴っていない」のか。
 これはヘレン・ケラーが言葉を理解した有名なシーンのイラストではないのか。これでは水遊びのイラストである。その前に、「支点が無い」のにどうやって水を汲み上げるのか。そして、「ウッドデッキに水を流」すのはまずいのではないか。
 一体、どういう世界なのか。理解不能なイラストである。誠にシュールなイラストなのである。
 以下、「ポンプに支点が無い」を詳しく説明する。
 ポンプには支点が必要である。
 下の動画を見てもらいたい。

 動いている棒を固定している箇所が支点である。支点があるから、小さい力を大きな力に変えることが出来る。だから、ポンプには支点が必要である。支点が無ければ、水を汲み上げることは出来ない。
 しかし、「道徳」教材のイラストに描かれたポンプには支点が無い。(注1)
 これは、ひどい間違いである。文部科学省が非科学的な間違いを教材に載せてしまったのである。
 一般的に文部科学省・教育関係者は科学についてはガチである。昔、国語の教科書教材「モチモチの木」の挿絵に三日月があった。その三日月が問題になった。〈夜中には三日月は出ない〉というのである。それで、三日月の絵は二十日の月の絵に変えられてしまった。それくらいガチなのである。

 https://blog.goo.ne.jp/ntrieko1528/e/af430b275f333705837ca3bc6ffaf11c

 教育関係者は国語の教科書教材はガチで直した。
 しかし、文部科学省は「道徳」教材に非科学的イラストを載せてしまった。
 なぜ、文部科学省は、非科学的イラストを載せてしまったのか。なぜ、支点が無いポンプのイラストを載せてしまったのか。なぜ、シュールなイラストを載せてしまったのか。
 それは「道徳」だからである。「道徳」は人をいいかげんにするのである。
 前回、「道徳」指導案を分析した。

 この「道徳」指導案はいいかげんであった。「問題外」であった。
 「道徳」は教師をいいかげんにする。子供をいいかげんにする。だいたい、「道徳」教材を作った文部科学省からいいかげんになってしまっている。
 「道徳」に関わると、なぜか、みんないいかげんになってしまう。普段は比較的普通の人達がみんなおかしくなるのである。
 何かに似ている。そうあれだ。
 
  「道徳」はB級映画に出てくるゾンビのようである。
  ゾンビが触れた人間は全員ゾンビになってしまう。
  「道徳」に関わった人間は全員いいかげんになってしまう。

 「道徳」に関わったら最後、全員が「ゾンビ」になってしまう。いいかげんになってしまう。
 いいかげんになった文部科学省は支点のないポンプのイラストを自らの発行物に載せてしまった。これは、まるで絵に描いたような明白な間違いである。いいかげんになっていなければ、自分で気がついたはずである。現に国語の教科書教材は直されたのである。
 なぜ、「道徳」は人を「ゾンビ」にするのか。いいかげんにするのか。
 おおむね次のような構造で人は「ゾンビ」になる。
 「道徳」では原理的に達成不可能な目標を立てる。例えば、この授業の場合は「努力する態度を育てる」である。しかし、一時間でこの目標を達成するのは原理的に不可能である。だから、関係者全員で達成できたことにするしかない。全員で誤魔化すしかない。全員で馴れ合うしかない。ガチでやっていては疲れるだけなのである。(注2)
 いいかげんでなければ成り立たないのが「道徳」なのである。
 人を「ゾンビ」にするのが「道徳」なのである。


(注1)

 このイラストは文部科学省のサイトから確認できる。

  「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」(『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省)


(注2)

 これは「道徳」において当事者が「いいかげんにしよう」・「馴れ合おう」と意識しているという意味ではない。意識している、意識していないに関わらず、どうしてもいいかげんになってしまうのである。馴れ合いになってしまうのである。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?