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【「道徳」批判10】〈気持ち〉を訊いても事実は明らかにならない

 「道徳」教材の「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」は事実に反していた。

 サリバン先生はヘレン・ケラーの体に触れることが出来なかった。しかし、教材文では、事実に反してサリバン先生がヘレン・ケラーに触れているのだ。
 事実に反する教材で授業が出来るのか。この教材を使った授業はどうなっているのか。心配である。
 授業案を見る。

 中心発問では、困難があっても最後まで努力してやり抜くことの大切さを考えさせるために、ヘレンを抱き締めたときの気持ちについて問いかける。……〔略〕……

 (赤堀博行編著『小学校 考え、議論する 道徳科授業の新展開 高学年』東洋館出版社、44ページ)

 やはり、ひどいことになっている。落語のようなことになっている。「抱き締める」ことが出来ないことが「困難」だったのである。これでは、「抱き締め」ることが出来ない「困難」を「抱き締めたときの気持ち」について「問いかけ」て理解させるという奇妙なことになってしまう。(注1)
 詳しく説明しよう。
 実際には、サリバン先生は次のような「困難」に直面していた。
 
 1 ヘレン・ケラーは、目が見えず耳が聞こえなかった。
 2 そのためヘレン・ケラーとコミュニケートするためには触覚を使う必要があった。
 3 しかし、ヘレン・ケラーは体に触れられるのを拒んでいた。
 4 この状態(困難)を解決しなければ、ヘレン・ケラーを教育することは出来ない。

 
 サリバン先生はヘレン・ケラーの体に触れられない「困難」に直面していたのだ。
 しかし、「道徳」教材では、この事実が分からない。事実を書いていないからである。事実に反した文章になっているからである。事実に反して、教材文にはサリバン先生がヘレン・ケラーの体に触れる表現があるからである。
 教材文に書かれていないのだから、教師は事実が分からない。
 教師が分かっていないのだから、授業も事実を踏まえないものになる。ヘレン・ケラーを「抱き締めたときの気持ち」を考えさせて「困難」を理解させるという落語のようなものになってしまう。ヘレン・ケラーを「抱き締め」ることが出来ないことが「困難」であるのに。
 そして、もちろん、授業を受けた子供も事実を知ることは出来ない。
 このような基本的な事実を知らずにサリバン先生の「困難」を知ったとは言えない。また、「困難」を知らなければ、サリバン先生の「努力」は分からない。
 では、実際の授業では何がおこなわれるのか。
 「学習過程(主な発問と予想される反応)」は次のようである。

 〇「ヘレンの教育は、まず、このわががまを直すことだと決心した」とき、アニーはどのような気持ちだったか。
 ・この子を変えてみせる。
 ・このままでは、この子は将来わがままになる。

 (赤堀博行編著『小学校 考え、議論する 道徳科授業の新展開 高学年』東洋館出版社、45ページ)

 教師は〈気持ち〉を訊いている。
 しかし、予想されている子供の反応は無内容である。子供は「この子を変えてみせる」という〈気持ち〉を挙げている。しかし、この〈気持ち〉は教材文にある文言の言い換えに過ぎない。「わががまを直すことだと決心した」を言い換えると「この子を変えてみせる」になる。これは無内容な言葉の言い換えに過ぎない。
 同様に「このままでは、この子は将来わがままになる」も無内容である。(注2)
 〈気持ち〉を訊くから、反応が無内容になる。〈気持ち〉を訊かれると、子供は「うれしい気持ち」「がんばろうという気持ち」のように答えることになる。このように〈気持ち〉を表現する語句は大雑把なのである。ある人物の〈気持ち〉を訊くのは、その人物の状態の概括を求めることである。〈気持ち〉の観点で大雑把に捉えることを求めることである。
 実際、この授業案でも〈気持ち〉を訊ねた結果は無内容である。子供の反応は、教材文の言葉を別の言葉に言い換えるだけになってしまっている。このような言葉の言い換えは事実を調べなくても出来る。教材文を読まなくても出来る。
 
  〈気持ち〉を訊いても、事実を明らかにする活動は起こらない。
 
 〈気持ち〉には、その〈気持ち〉が生ずる基となる事実がある。(注3)
 しかし、〈気持ち〉を訊いて「『この子を変えてみせる』という気持ち」などと答えさせても、事実は明らかにならない。〈気持ち〉を述べることは、大雑把な概括をすることである。大雑把な言葉でまとめても、事実は明らかにならない。つまり、〈気持ち〉を訊いても、事実を明らかにする活動は起こらない。〈気持ち〉の検討には事実を明らかにする機能は無いのである。
 教師は、事実を子供に認識させるべきである。サリバン先生の「困難」を認識させるべきである。「困難」を認識するから、その人物の「努力」が分かるのである。(注4)
 〈気持ち〉を訊いていては、サリバン先生の「困難」が分からない。「困難」が分からなければ、サリバン先生の「努力」も分からない。
 授業でサリバン先生の〈気持ち〉を訊くと、サリバン先生の「困難」「努力」が分からないままになる。事実が分からないままになる。
 〈気持ち〉を訊く授業は事実から目を離れさせる授業なのである。
 
 
 
(注1)

 授業案には「抱き締めた」という文言がある。しかし、教材文にそのような文言は無い。教材文にあるのは「頭をなでながら」である。(該当部分ではない教材文全体を探しても、存在する文言は「だき寄せ」である。)
 つまり、「抱き締めた」は間違いである。ひどい間違いである。
 しかし、論述の都合上、本稿ではこの間違いをそのままにした。もちろん、この事実は私の主張に影響を与えない。本稿を次のように正しい文言に変えても、私の主張に変化は無い。〈「頭をなで」られない「困難」を「頭をなでたときの気持ち」について「問いかけ」て理解させるという奇妙なことになってしまう〉
 

(注2)

 「このままでは、この子は将来わがままになる」から、「わがままを直すことだと決心した」という奇妙な論理である。
 これも落語のようである。「将来わがままになる」も何も、既に「わがまま」なのである。その「わがまま」を直すと決心したのである。
 また、現在「わがまま」なのだから、直さなければ「将来わがまま」なのは当然である。
 「このままでは、この子は将来わがままになる」という〈気持ち〉は無内容である。
 
 
(注3)

 〈気持ち〉を訊く悪さは、宇佐美寛氏によって次のように論じられている。

 ある気持ちになるのは、ある事実を認識したからである。手品師は、子ども、友人、大劇場での公演等の事実を認識したのである。……〔略〕……
 手品師の〈気持ち〉は、右に述べたように手品師の様々な認識内容の総体に依存している。言いかえれば、認識内容の構造によって、どんな気持ちであるかが決まる。
 様々な事柄にわたる認識が《もと》なのである。気持ちはその結果の一部分にすぎない。
 〈気持ち〉を言うのは、この一部分だけを短い言葉に置き換えることである。《もと》の認識内容にまでは至らない末梢的で不適切なまとめ言葉を言うことになる。
 そんなに早く粗いまとめをしてはいけない。書かれている事実を注意深く見なければいけない。〔傍点を二重ヤマカッコに変えた。〕
 
 (宇佐美寛『「道徳」授業に何が出来るか』明治図書、128~129ページ)


(注4)

 この授業案には次のように「ねらい」が書いてある。

 より高い目標を立て、希望と勇気をもち、困難があってもくじけずに努力して物事をやり抜こうとする心情を育てる。

 一時間の授業に「やり抜こうとする心情を育てる」という遠大な「ねらい」が設定されてる。これは実現不可能である。
 しかし、ここで指摘したいのは次の点である。
 「困難」「努力」の事実の認識なしに「やり抜こうとする心情」を育てるのは不可能である。「気持ち」を訊いて「やり抜こうとする心情」を育てようとするのは間違いである。
 つまり、この「ねらい」に近づくためには、「困難」「努力」の事実を認識させる方向に活動せざるを得ないはずである。

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