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【「道徳」批判5】 ゴルゴ13を「やさしいお母さん」にしてしまう

 「道徳」教材においてサリバン先生は全くの別人にされていた。人物像を「捏造」されていた。

 「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」でサリバンは障害者教育を志したことになっていた。「目の不自由な人たちのために役に立ちたい」と「決意」したことになっていた。しかし、それは事実ではなかった。
 アニー・サリバンは障害者教育を志した事実は無い。むしろ、サリバンは「人を教えることなどまっぴらだと思っていた」のである。教師になるなど「まっぴら」だったのだ。
 サリバン先生の人物像は歪められていた。
  
  「道徳」教材は人物像を歪めている。
 
 私達が「道徳」教材で読んだのは歪められた「サリバン先生」だ。
 では、本当のサリバン先生はどのような人物だったのか。
 確認してみよう。
 教師なるなど「まっぴら」だと思っていたアニー・サリバンは、なぜ「ヘレン・ケラーの家庭教師になる」と決めたのか。サリバンは手紙で次のように言う。

 「アナグノス先生はなぜ、わたしが夢にも考えなかった動機がわたしにあったかのようないいまわしをなさるのでしょうか? わたしが博愛精神からここへきたわけではなかったことは、あなたにも、アナグノス先生ご自身にも、またわたし自身にも、よくわかっているのですから。それなのに“ハウ博士の高邁な精神に影響され、小さなアラバマ娘〔ヘレン・ケラー〕を無明の世界から救い出そうという願いに燃えて”なんて、あまりにもこっけいではありませんか! わたしがここにきたのはなんとか自分で生計を立てて行かねばならなかったからで、わたしにしろ、アナグノス先生にしろ、わたしがこの仕事にとくに適していると考えたわけではなかったのです。わたしは最初に提供された機会に飛びついたにすぎません」
 
 (J・P・ラッシュ『愛と光への旅』新潮社、68ページ) 

 サリバンが家庭教師になったのは「生計」のためである。(注)
 サリバンは「〔ヘレン・ケラー〕を暗黒と蒙昧から救い出そうと希望の火を燃やしている」という事実を否定する。障害者教育を志した事実を否定する。「生計」のために来たと言い切る。
 サリバンは「きれいごと」が嫌いなのである。ハードボイルドな人柄なのである。
 サリバンにはハードボイルドなエピソードがたくさんある。
 例えば、次のような学生時代のエピソードである。
 窃盗事件が起き査問委員会が出来た時、サリバンは次のように主張した。

 「証拠もないのにわたしたちを泥棒扱いする権利は誰にもないはずです」

 (J・P・ラッシュ『愛と光への旅』新潮社、29ページ)

 さらに、校長に「私がきみの身体検査をしたら、どうするね?」聞かれ、サリバンは「先生の目を引っ掻き出します」と答えた。
 サリバンは人権意識が強い人物である。やられたらやり返す人物である。
 別のエピソードを見てみよう。アニー・サリバンは「あなたの頭は、いつ目を覚ますの?」と数学の教師に言われて、次のように言い放った。「たぶん、この時間が終わったら」
 そして、言った。

 「こんなつまらないこと、何のためにやるんですか?」
 こう聞いたアニーに、先生はしたり顔で言った。「頭脳を訓練して、自制心を養うんです――自制心を養う必要のある人もいるようですからね」
 「先生は、どのぐらい幾何を教えていらっしゃるんですか?」
 「七、八年になりますね。でも、どうして?」
 「先生の頭、ちっとも訓練されていないみたいですから」
 はっと息を呑んだ先生に、アニーはもう一太刀浴びせた。
 「自分がどんなにばかかってことを思い知らせる学科があってもいいと思うわ」

 (同上、26~27ページ)

 これらのエピソードからアニー・サリバンがどのような人物であるかが大筋で理解できる。サリバンは自説を堂々と述べる人物である。そして、やられたらやり返す人物である。
 つまり、サリバンは気合いの入った人物である。ハードボイルドな人物である。そして、かなり「かっとなりやすい」人物なのである。
 そのアニー・サリバンが「道徳」資料ではどうなっているか。

 「まあ、なんてかわいい子でしょう。これから仲良くしましょうね」

 ……〔略〕……

「アニーは、ヘレンの頭をなでながら、(ヘレン、あなたがかわいいからよ許してね)と、心の中で言いました」
 
 「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」(『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、22~23頁)

 苦笑するしかない。
 アニー・サリバンが「これから仲良くしましょうね」と言うはずがない。また、「ヘレン、あなたがかわいいからよ許してね」と言うはずもない。サリバンは二重人格なのか。
 サリバンは気合いの入った人物である。ハードボイルドな人物である。ハードボイルドな人物はこんなことは言わない。
 喩えて言えば、「道徳」は次のようなことをしたのだ。

  ゴルゴ13を「やさしいお母さん」にしてしまう。

 ゴルゴ13が「仲良くしましょうね」「許してね」と言っている場面を想像してもらいたい。ありえない。
 同様にサリバンがそう言うこともありえない。
 「道徳」教材のサリバンは、人物像を「捏造」されている。言ってもいないことを言ったことにされ、思ってもいないことを思ったことにされている。
 「道徳」資料の作者は、サリバンなどどうでもよかったのだろう。「道徳」は人物像を歪める。
 
  「道徳」によって、サリバン先生は全く別人にされている。
  本当はゴルゴ13なのに「やさしいお母さん」にされている。

 
 ゴルゴ13なのに「やさしいお母さん」にされたら大ショックである。ものには限度がある。それでなくても、サリバンは「かっとなりやすい」人物なのだ。

  「道徳」教材の作者はサリバンに「目を引っ掻き出」されることを覚悟するべきだろう。

 「道徳」は実在の人物を別人にしてしまう。これはサリバンにとっては迷惑なことだろう。「道徳」は人間を尊重しない。人権を無視する。
 アニー・サリバンは人権を重視し、人権を無視する相手の「目を引っ掻き出」す人物である。やられたらやり返す人物である。
 先のエピソードを読んだ読者の皆さんにはサリバンの人物像が出来たはずである。つまり、「サリバンならばこういうことをしそうだ。こういうことはしなそうだ」という実感が生じたはずである。
 サリバンなら、「きれいごと」は言わないだろう。「まあ、なんてかわいい子でしょう。これから仲良くしましょうね」とは言わないだろう。
 それにもかかわらず、サリバンは「きれいごと」を言う人間にされてしまった。全く別人にされてしまった。サリバンの人権は無視された。
 この人権無視をサリバンは許さないだろう。
 さらに言えば、この「道徳」教材全体が「きれいごと」である。
 サリバンならば、この「道徳」教材を許さないだろう。
 「きれいごと」で出来た「道徳」を許さないだろう。


(注)

 サリバンには、他の選択肢がなかったのである。当時、弱視の女性がつける仕事は限られていた。既に、サリバンは学校を卒業して就職浪人中だった。
 そこに偶然、ヘレン・ケラーの家庭教師の仕事の話が舞い込んで来た。それにサリバンは「飛びついた」のだ。それは「生計」のためである。

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