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【「道徳」批判2】 「道徳」は事実を大切にしない

 「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」の第一文は次の通りである。

 アニー・サリバンは、生まれつき視力が弱く、一時は失明したこともありました。
『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、22ページ

 何の変哲も無い文である。
 しかし、相手は、支点の無いポンプで水を汲み上げるシュールなイラストを載せる「道徳」である。

 関わった者全員を「ゾンビ」にする「道徳」である。関わった者全員をいいかげんにする「道徳」である。

 油断ならない。
 伝記を調べてみる。次のような文言を発見する。

 アニーは体は丈夫だったが、五歳のときにトラコーマにかかり、手当を怠ったので、徐々に視力障害を起こした。
(ジョゼフ・P・ラッシュ『愛と光への旅 ――ヘレン・ケラーとアン・サリバン』新潮社、14ページ)

 サリバンは「五歳のときにトラコーマにかかり」「視力障害を起こした」のである。「生まれつき視力が弱」かった訳ではない。
 つまり、次の文は間違っている。

 「アニー・サリバンは、生まれつき視力が弱く、一時は失明したこともありました」

 文章の第一文から間違っているのである。
 これが「道徳」の恐ろしさである。「道徳」は関わった人間をいいかげんにする。「ゾンビ」にする。
 さらに、「おまえ、ゾンビだろ」と気合いを入れて、教材文を読み進める。すると、違和感がある箇所を発見する。
 校長がサリバンに次のように言っているのだ。

「アニー。ヘレン・ケラーという六歳の女の子の家庭教師になってほしいという話があります。目と、耳と、口の、三つが不自由な子供ですから、教えるのにとても苦労すると思います。しかし、あなたならできると信じています。」(同上)

 疑わしい。
 「目と、耳と、口の、三つが不自由」と盲学校の校長が言うだろうか。
 校長なら教育上の問題を考えるはずである。教育上重要なのは「三つ」ではない。
 まず、ヘレンは目と耳が不自由なのである。目と耳が不自由なために、言葉を習得できない。コミュニケーションが出来ない。それが大問題なのだ。
 口が不自由なのは副次的な問題である。話せないのは副次的な問題である。
 だから、盲学校の校長ならば、目と耳の二つが不自由と考えるはずである。
 校長の発言を「捏造」してる可能性が高い。
 何しろ「道徳」である。支点が無いポンプで水を汲み上げてウッドデッキに流すシュールなイラストを載せるくらいいいかげんなのである。文章の第一文から間違っているくらいいいかげんなのである。
 調べると、校長がアニー・サリバンに宛てて書いた手紙が見つかる。

My dear Annie,

Please read the enclosed letters carefully, and let me know at your earliest convenience whether you would be disposed to consider favorably an offer of a position in the family of Mr. Keller as governess of his little deaf-mute and blind daughter.

https://www.afb.org/about-afb/history/online-museums/anne-sullivan-miracle-worker/anne-teacher

 やはり、「deaf-mute and blind daughter(耳と目が不自由な娘)」である。「目と、耳と、口の、三つが不自由」とは言っていない。
 やはり、校長の発言は「捏造」されていた。(作者が意図的に捏造したかどうかは不明である。だから、「捏造」とカッコをつけて表記している。)
 なぜ、このような「捏造」をしてしまうのか。事実を重視していないからである。校長の発言を引用していないからである。
 また、教材文の作者自身がヘレン・ケラーの教育を真剣に考えていないからである。ヘレン・ケラーを教育する立場で真剣に考えれば、「耳と目が不自由」であることが教育の障害であることが分かるはずである。
 校長は手紙に「耳と目が不自由な娘」と書いた。これが校長の問題意識であった。また、手紙をもらったサリバンの問題意識であった。
 教材文における「目と、耳と、口の、三つが不自由」という校長の発言は「捏造」されたものだった。
 では、「目と、耳と、口の、三つが不自由」とは何か。なぜ、「三つ」なのか。「三重苦を克服したヘレン・ケラー」などとよく言われる。これはキャッチフレーズである。本や映画などで使われるキャッチフレーズである。
 しかし、キャッチフレーズは教育上の問題を表してはいない。キャッチフレーズを教育者が述べるのは奇妙である。キャッチフレーズは教育者の発想ではないからである。
 校長は自分がしていない発言をしたことにされてしまっている。キャッチフレーズを述べたことにされてしまっている。怪しい発言をする人物にされてしまっている。校長にとって、これは迷惑であろう。
 また、「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」には次のようにある。

 卒業を目前にひかえた、ある日のことです。アニーは、校長室に呼ばれました。……〔略〕……
『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、22ページ

 校長が、家庭教師の依頼の話をするためにアニーを「校長室に呼」んだというのである。しかし、先に述べたように校長は手紙で伝えたのである。「校長室に呼」んだのではない。
 また、「卒業を目の前にひかえた、ある日のこと」とある。これも事実と異なる。アニーは既に卒業していた。おおざっぱに言えば「就職浪人」だったのである。「就職浪人」なので、アニーは学校にはいない。だから、手紙で伝えたのである。
 これも「捏造」である。
 実在の人物の発言を「捏造」してしまう。事実関係も「捏造」してしまう。
 「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」は全ての文が疑わしい。
 「道徳」は事実を大切にしない。人間を大切にしない。悲しい矛盾である。
 「道徳」は人間をいいかげんにする。「道徳」は人間を「ゾンビ」にする。「道徳」とは誠に不道徳なものである。

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