研究仲間が「ゾンビ」になってしまった?
本屋で「道徳」授業の本を見る。「ヤバイもの見たさ」である。つまり、研究のためである。
すると、何ということだろう。
古い研究仲間の名前を背表紙に見つけてしまったのだ。
なぜ、「道徳」の本を書いているのか。ダークサイドに落ちてしまったのか。
「道徳」に関わってはいけない。「ゾンビ」になってしまう。次の文章で説明した。
「道徳」に関わった人間は全員が「ゾンビ」になってしまう。全員がいいかげんになってしまう。
おそるおそる本を手に取る。
研究仲間は「ゾンビ」になってしまったのか。
「ゾンビ」は「ゾンビ」だが、よい「ゾンビ」である。
よかった。「よい『ゾンビ』」で。
まだ、人間の心を失っていない「ゾンビ」である。
指導案で塚田直樹氏は言う。
ips細胞でノーベル賞を受賞したことから、山中氏に対し、とても優秀な医師(中には「ブラック ジャック」 のような外科医)という印象を持っている生徒もいる。このことから、発問1-( 2 )で、山中氏を「手術が上手で難しい病気や怪我も治せる」医師と一端予想させ、その答えを知らせずに教材文の範読を進める。ノーベル賞を受賞するような人でも人生の中で挫折を味わっていることを知らせ、「ジャマナカ」とまで言われた医師が、どうして世界的な賞を受賞できたのか、更に教材への関心を高める。(注1)
「人間の心を失っていない」ことが分かる。
教材文の解釈が書いてある。「ブラックジャック」と「ジャマナカ」の対比で教材文を捉えている。また、〈外科医での失敗〉と〈研究者としての成功〉の対比で教材文を捉えている。
つまり、筆者自身が教材文の面白さを感じている。「『ジャマナカ』とまで言われた医師が、どうして世界的な賞を受賞できたのか」という問題意識がある。そして、それを子供に伝えようとしている。つまり、「人間の心を失っていない」のである。
そんなことは当たり前だと思われるかもしれない。しかし、「道徳」授業においては当たり前ではない。「ゾンビ」となった教師が、教材文のどこを面白いと思ったか分からない授業をするのが普通なのである。
だから、「道徳」の惨状を前提にすれば次の本はよい本である。「道徳」基準ではよい本である。(注2)
かなり興味深いツッコミは次のものである。
諸野脇は「道徳」を論じている。
つまり、「道徳」に関わっている。
だから、諸野脇も「ゾンビ」になっているのではないか。
いいかげんになっているのではないか。
その通りである。私も「ゾンビ」になってしまっている。いいかげんになってしまっている。
何しろ、批判対象がひどすぎるのである。例えば、先の文章で論じた奇怪なイラストある。「ポンプに支点が無い」と言うだけで批判になってしまう。これは楽だ。
楽なので、気が緩む。いいかげんになる。
先の文章は、私の文章としては雑である。どうしても「道徳」に関わると、いいかげんになる。「ゾンビ」になってしまう。
「人間の心を失っていない」「ゾンビ」としてお許しいただきたい。(注3)
(注1)
神部秀一・塚田直樹編著『全時間の授業展開で見せる「考え、議論する道徳」中学校』学事出版、31ページ
(注2)
次の文言は正の評価と思いにくいかもしれない。
「『道徳』の惨状を前提にすれば次の本はよい本である」
「人間の心を失っていない『ゾンビ』である」
しかし、これは正の評価である。「道徳」に関わって、「人間の心を失」わずにいるのは難しいのである。それだけでプラスに評価できる。
「『道徳』の惨状」については今後さらに説明する予定である。
また、筆者の方には次のような不満があるかもしれない。「この本は『道徳』の惨状を前提としなくても素晴らしい本だ」
もしそうなら、その旨、言って欲しい。詳しく説明させていただく。
(注3)
塚田直樹氏には「ゾンビ」仲間ということでお許しいただきたい。
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