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思想は文体に宿る

 前回、事実が伝わる文体の重要性を説明した。「プラグマティズム的な文体」を説明した。

 例えば、指導案(授業案)であれば、指導言を授業で言う通りに書くのである。次のようにである。(注1)
 
  【発問】 バスの運転手さんは、どこを見て運転していますか?
 
 これならば事実が分かる。
 これに対して、「運転手さんの仕事を考えさせる」などと概括言葉でまとめてしまっては事実が分からない。事実が分からなくては授業の検討は出来ない。
 事実が分からない文体では、授業の仕方を伝えることは不可能である。
 それでは、次の文言はどうか。「ヘレンと共に ― アニー・サリバン ―」(『私たちの道徳 小学校5・6年』文部科学省)を使った授業である。

 発問 ヘレンを「光の天使」に成長させたアニーの努力について考えよう。 (注2)(注3)

 一見、授業での発問をそのまま書いたように見える。しかし、本当に「努力について考えよう」と授業で言うのだろうか。「考えよう」と言っても、子供は考える状態にはならない。バスの運転手さんの例に当てはめれば次のようになる。
 
  バスの運転手さんの仕事を考えよう。

 「考えよう」と言われても、考えることは出来ない。考える〈とっかかり〉がないのである。実際の授業においては、別の指導言が必要になるはずである。「バスの運転手さんは、どこを見て運転していますか」のような。
 「~アニーの努力について考えよう」もこれと同様である。「考えよう」と言われても、考えることは出来ない。別の指導言が必要になるはずである。
 それでは、先の「発問」に続く部分で具体的な指導言を探してみよう。

 教材への理解が深まってきたところで、アニーの行動やそれを支えた熱い思いに気付かせるために、アニーが視覚障害のある人のためになりたいと思うに至った心情、ヘレンの家庭教師を引き受けたときの心情を確認しました。……〔略〕……

 「心情を確認しました」とある。
 しかし、どのように「心情を確認」したのかが分からない。何と言って「心情を確認」したのかが分からない。また、〈なぜ「心情を確認」すると「アニーの努力について考えさせる」ことになるのか〉が分からない。
 この指導案では授業の事実が分からない。授業での指導言が分からない。具体的に教師が何をするのかが分からない。
 事実が伝わらない文体なのである。
 あえて想像すれば次ような発問だったのだろう。
 
  発問 〔ヘレンを「光の天使」に成長させたアニーの努力について考えよう。〕アニーが努力できたのはどのような心情があったからですか。
 
 この想像が正しいかどうかは分からない。しかし、このような発問ならば、「努力」と「心情の確認」が繋がる。
 これは私の想像である。実際には、どのような授業なのかは分からない。よい・悪いを論ずるの前に、どのような授業なのかが分からないのである。
 次の二つは違う。
 
  1 指導案の文体が悪い。
  2 指導案に書かれた内容(指導言)が悪い。

 
 先の指導案は文体が悪いのである。
 文体が悪いのは次元の違う悪さである。五段階評価の1ではなく、「問題外」である。
 文体が悪ければ、評価すら出来ない。文体が悪いため、授業の事実が分からないのである。だから、授業のよし悪しを論ずることは出来ない。「問題外」と言うしかない。
 先の「発問」が載っている本のタイトルには「アクティブ・ラーニングを位置づけた」という文言がある。授業の事実が分からないのだから、この授業が「アクティブ・ラーニングを位置づけた」ものかどうかは分からない。
 
  思想は文体に宿る。
 
 先の指導案の作者が「アクティブ・ラーニング」思想を語っても、信じられない。事実が不明な指導案では、読者の思考は「アクティブ」にならない。事実を基に考えることが出来ない。
  
  思想を語る言葉の内容より、行動を見よ。
  文体を見よ。

  
 「アクティブ・ラーニング」思想を語る論者の行動が「アクティブ・ラーニング」を保障していないならば、その主張を信じることは出来ない。「アクティブ・ラーニング」思想と事実が分からない文体とは相容れないのである。
 事実が伝わる文体は思想の表れである。
 「プラグマティズム的な文体」は思想の表れである。
 思想は行動に表れる。
 文章においては文体に表れる。

 


(注1)

 前回、授業の計画書のことを「授業案」と書いた。これは、一般の読者が理解しやすいようにであった。
 しかし、教育界では、授業の計画書のことを「学習指導案」と呼ぶ。略して「指導案」である。
 今回から、教育界の用語に従い「指導案」と表記する。
 

(注2)

 押谷由夫編著『アクティブ・ラーニングを位置づけた 小学校 特別の教科 道徳の授業プラン』明治図書、44ページ
 なお、この部分の筆者は池田守氏である。


(注3)

 念のため書く。
 この「発問」は囲みで強調されている。これは、この本全体のフォーマットである。フォーマットとして、全ての授業について発問を書く構造になっている。授業での指導言を書く構造になっている。これはよい。
 だから、池田守氏の文章のこの部分の文体が悪かっただけである。本全体が「問題外」である訳ではない。


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