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【「道徳」批判3】 サリバン先生がヘレン・ケラーに言葉を教えない不思議な教材文

 映画『奇跡の人』を見たことがある人も多いだろう。
 ヘレン・ケラーにサリバン先生が言葉を教える話である。目と耳が不自由なヘレン・ケラーに言葉を教えるのは大変な困難であった。その「闘い」を描く映画である。とにかく、最初からサリバン先生は言葉を教え続ける。(注1)
 しかし、「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」(『わたしたちの道徳 小学校5・6年』)のサリバン先生は言葉をなかなか教えない。教材文の半分を過ぎても言葉を教えない。
 
 「おまえ、サリバン先生だろ。早く言葉を教えろ。」
 
 そう言いたくなる状態である。このサリバン先生はまがい物なのか。謎の人物なのである。〈サリバン先生は言葉を教え続ける〉という常識を覆す人物なのである。
 詳しく見てみよう。教材文に書かれたサリバン先生とヘレン・ケラーの出会いの場面は次の通りである。

 アニーは、おだやかな日差しを受けて、ケラー家の玄関の前に、馬車から降り立ちました。そのとき、女の子がものすごい勢いで走ってきて、アニーにぶつかりました。それがヘレンだったのです。アニーは、ヘレンをだき寄せ、
「まあ、なんてかわいい子でしょう。これから仲良くしましょうね。」
と、言いました。

(「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、22~23ページ)

 これだけである。
 本当にサリバン先生なのか。サリバン先生なら、言葉を教えるはずである。
 それでは実際の活動を見てみよう。次のような活動がおこなわれている。(サリバンの手紙の記述である。)

 私のトランクが届くと、彼女はあけるのを手伝ってくれました。そして、パーキンス盲学校の少女たちが彼女に送った人形を見つけて喜びました。このとき、私は今が彼女に最初のことばを教える良い機会だと思いました。そこで、彼女の手に、ゆっくりと指文字で、d-o-l-lと綴りました。

(アン・サリバン『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』明治図書、13~14ページ)

 サリバン先生はヘレン・ケラーに会って直ぐに言葉を教えようとしている。ヘレン・ケラーの手に「d-o-l-l」と綴っている。

 私はケーキをヘレンの方にさしだしながら、手にc-a-k-eと綴りました。もちろんケーキがほしかったので、彼女は取ろうとしました。けれども、私はまたこの単語を綴って、彼女の手を軽くたたきました。彼女はすぐに文字を綴ったので、ケーキを与えました。

(同、14ページ)

 サリバン先生はヘレン・ケラーに「c-a-k-e」と綴らせることに成功した。これも直ぐの出来事である。
 サリバン先生の方針ははっきりしている。それは〈言葉を教える〉である。
 ヘレンが言葉を習得できなかったのは目と耳が不自由だったからである。(注2)
 視覚・聴覚が不自由だったため、言葉を「入力」する方法がなかったのである。だから、サリバン先生は目と耳の代わりとして手に言葉を「入力」したのである。触覚を利用したのである。
 しかし、教材文には、到着して直ぐおこなわれたこの活動は全く描写されていない。
 もう一度、教材文を確認しよう。

 アニーは、ヘレンをだき寄せ、
「まあ、なんてかわいい子でしょう。これから仲良くしましょうね。」
と、言いました。

 謎の人物である。教材文によく出てくるやさしいお母さんのようである。(注3)
 これはサリバン先生ではない。サリバン先生ならば、直ぐに〈言葉を教える〉活動をしているはずである。「d-o-l-l」「c-a-k-e」と綴らせようとしているはずである。サリバン先生は気合いの入った人物なのである。
 この謎のサリバン先生はなかなか〈言葉を教える〉活動を始めない。教材文の半分を超えて、やっと〈言葉を教える〉活動の記述が出てくる。次のようにである。

 また、アニーは、指話法でヘレンに文字を教えました。……〔略〕……

(「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、24ページ)

 わが目を疑う思いである。「また」は付け足しである。「文字を教え」るのは付け足し程度の位置づけだったのか。
 違う。「文字を教え」るのは中核なのだ。
 サリバン先生は何をするために、ケリー家に来たのか。「文字を教える」ために、ケリー家に来たのだ。さらに言えば、教えたのは「文字」ではない。「言葉」である。
 ヘレン・ケラーは言葉を習得していなかった。目が見えず、耳が聞こえなかったからだ。そのため、言わば「野獣」のような状態だった。ケリー家の人は、ヘレン・ケラーと言葉によるコミュニケーションを取ることが出来なかった。言葉を教えることが出来なかった。だから、家庭教師としてアニー・サリバンを呼んだのである。
 〈言葉を教える〉活動は中核である。
 それにも関わらず、教材文の筆者は言う。

  また、アニーは、指話法でヘレンに文字を教えました。

 「また」ではない。サリバン先生は〈言葉を教える〉活動しかしていないのだ。〈言葉を教える〉活動のために、障害になっている「わがまま」の問題を解決しただけなのだ。
 この教材文のサリバン先生は何をしに来たか分からない謎の人物である。〈言葉を教える〉活動をしに来たという事実が分からないのだ。
 つまり、次のような問題の構造が分からない。
 
 1 ヘレン・ケラーは目と耳が不自由であった。そのため言葉の習得が困難であった。
 2 ケラー家の人達は、言葉を習得していない「野獣」のようなヘレン・ケラーに苦悩していた。
 3 だから、ケラー家の人はパーキンズ盲学校に手紙を書いて家庭教師の派遣を依頼した。パーキンズ盲学校には目と耳が不自由な人に言葉を教えた前例があったからだ。そして、来たのがサリバンであった。
 4 目と耳が不自由だから、触覚を使うしかない。サリバンはヘレン・ケラーの手に言葉を「入力」し続けた。
 5 ヘレン・ケラーは「doll」「cake」のような記号は直ぐに使えるようになった。しかし、全ての物に名前があるという世界観を持ってはいなかった。言葉を持ってはいなかった。言葉の存在を理解したのが「water」の場面である。

 
 教材文では、この問題の構造が分からない。映画『奇跡の人』では簡単に分かるにも関わらずである。
 サリバン先生がまがい物であるため、問題の構造が分からなくなってしまっている。サリバン先生が〈言葉を教える〉活動をしに来たと分からないため、この教材文は謎の教材文になってしまっている。
 つまり、この教材文では、ヘレン・ケラーの状態もサリバンの努力も分からない。
 だから、この教材文で、「サリバンの努力を理解しろ」と言われても無理である。
 なぜ、サリバン先生がヘレン・ケラーに言葉をなかなか教えない不思議な教材文になってしまったのか。ヘレン・ケラーの状態もサリバンの努力も分からない教材になってしまったのか。
 それは「道徳」だからである。
 既に論じた通りである。「道徳」は人をいいかげんにする。「ゾンビ」にする。

 既に論じた通りである。「道徳」は事実を大切にしない。

 「道徳」は人をいいかげんにする。事実を大切にしない。
 だから、サリバン先生がヘレン・ケラーに言葉をなかなか教えない不思議な教材文が出来てしまったのである。



(注1)

 映画『奇跡の人』(1962年)の脚本は比較的よく出来ている。
 大筋で事実を踏まえている。
 サリバンが到着して直ぐに「doll」「cake」を教えた事実も描かれている。


(注2)

 ヘレンが言葉を習得できなかったのは目と耳の二つが不自由だったからである。
 「目と、耳と、口の、三つが不自由」だったからではない。
 「『道徳』は事実を大切にしない」で詳しく論じた。


(注3)

 サリバンの手紙によると、出会いの場面は次の通りである。

 小さな顔には、熱心な表情があふれていました。体格はよく、体つきも全体的にがっちりとしていました。……〔略〕……ヘレンが奇形だったら、それとも盲目に伴う神経的な癖があったら、はるかに大きな困難が予想されたでしょう。……人慣れしていないこの子がわたしにキスすることを頑強に拒んで、わたしの手からすり抜けようとあばれたとき、わたしはとてもがっかりしました。

(アン・サリバン『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』明治図書、42ページ)

 サリバンは教育者である。だから、教育上重要な点を確認している。例えば、「神経的な癖」があるかどうかである。
 また、サリバンに抱かれたヘレン・ケラーは「すり抜けようとあばれた」のである。サリバンは「がっかり」したのである。
 抱きしめて、「まあ、なんてかわいい子でしょう。これから仲良くしましょうね。」と思ったというのは事実ではない。
 「やさしいお母さん」のようなサリバン先生像は事実ではない。
 
 

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