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【人間観6】なぜ、反省文に効果があると思うのか

 中村うさぎ氏は自分が立てた誓いを守れなかった。

 このような状態は一般に「分かっているのに出来ない」と表現される。スーダラ節的には「わかっちゃいるけど、やめられない」である。
 このような状態を見た人はどのように考えるか。次のように考える人が多いだろう。
 
  中村うさぎ氏は反省が足りない。
 
 「分かっているのに出来ない」のは「反省が足りない」のだと解釈するのである。
 中村うさぎ氏は「もう二度と、シャネルでムダ金を遣いません」と誓った。それにも関わらず、シャネルで服を買ってしまった。誓いを破ってしまった。
 このような場合、「中村うさぎ氏は反省が足りない」と考えるのはよくあることである。「もっと反省すれば出来るようになる」と考えるのである。
 「反省が足りない」は自然な解釈である。この自然な解釈は、中村うさぎ氏を「一人の人」だと考える人間観に基づいている。意識が行動を統御していると考える人間観に基づいている。
 もし、意識が行動を統御しているならば、行動の間違いは意識の間違いの結果である。そうならば、反省によって意識の間違いを正せばよくなる。反省によって意識を正せば、行動も正される。だから、反省には効果があることになる。
 しかし、このような人間観は間違いである。人間を一枚岩だと考える人間観は間違いである。人間を「一人の人」だと考える人間観は間違いである。
 事実を見てみよう。既に、中村うさぎ氏は最大限の反省をしているのである。
 まず、税理士と二人で「惨憺たる経済状況」を確認した。そして、シャネルで莫大な額のお金を使っていることを確認した。その上で「もう二度と、シャネルでムダ金を遣いません」と税理士に誓った。また、雑誌を通して自分の読者に誓った。(詳しい反省の様子は「【人間観1】なぜ、ダイエットは成功しないのか」を参照。)
 これは最大限の反省と言っていいだろう。第三者と一緒に浪費の原因をはっきりさせて、雑誌を通して公に誓いを立てたのである。
 しかし、この最大限の反省は効果が無かった。
 中村うさぎ氏は、シャネルに入った途端に「一着のジャケットに釘付けになった」のである。誓いを破って、服を買ってしまったのである。
 最大限の反省は効果が無かったのだ。
 では、仮に中村うさぎ氏の意識が行動を統御していたとすればどうか。中村うさぎ氏が一枚岩の人間だったとすればどうか。「一人の人」であったとすればどうか。
 誓いは破られなかっただろう。反省は効果があっただろう。最大限の反省により、意識の間違いは正されていたからである。
 つまり、次のように言える。
 
  反省を求めるのは人間を一枚岩だと考えるからである。
  これは、人間を「一人の人」だと考える思想である。

 
 しかし、意識が正されても、行動が正されるとは限らない。〈反省する人〉が反省しても、〈行動する人〉の行動が変わるとは限らない。
 現に、中村うさぎ氏の行動は変わらなかった。シャネルで服を買ってしまった。誓いを破ってしまった。

  反省を求める思想は役に立たなかった。

 人間を一枚岩だと考える思想は役に立たなかった。「一人の人」だと考える思想は役に立たなかった。
 最大限の反省をしたにも関わらず、中村うさぎ氏は誓いを破ってしまった。税理士にも読者にも誓ったのに誓いを守れなかった。
 それは、中村うさぎ氏が「一人の人」ではなかったからである。中村うさぎ氏の中に「二人の人」がいたからである。〈反省する人〉と〈行動する人〉の「二人の人」がいたからである。(詳しくは「【人間観2】人間の中には『二人の人』がいる」を参照。)
 中村うさぎ氏が「もう二度と、シャネルでムダ金を遣いません」と誓ったのは『文藝春秋』誌上においてであった。全国誌で反省したのである。これはもう壮大な反省文である。しかし、この壮大な反省文は効果が無かった。反省文によって行動は変わらなかった。
 反省文に効果があると思うのは人間を一枚岩だと考えるからである。「一人の人」だと考えるからである。
 しかし、人間は一枚岩ではないのである。「一人の人」ではないのである。


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