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メインカルチャーなき時代 ( メインカルチャーなき時代の哲学 その3 )

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今回は、現代を4つの時代に分ける
「メインカルチャーなき時代」の解説です。

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・ (2) メインカルチャーなき時代

💿 時代の概要 💿

  メインカルチャーなき時代とは、マスメディアなき時代であり、その日だけのトレンドを意識的に追いかけることが求められる時代のことです。メインカルチャーが無いというと、漫画やアニメ等のサブカルチャーだったものが、メジャーになることを想像する人もいるかと思いますが、そんな話ではありません。ポイントは、マスメディアが無くなった後に、社会がどう変化したかです。

💿 普通の人への影響 💿

  メインカルチャーなき時代に、メリットがあるとすれば、多様性が重視されることです。なぜ、そのような仮説ができるのか考えるには、かつて日本にあったマスメディアとはなんだったかを思い出さないといけません。

  マスメディアは、一般に、「新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画・野外広告などの一般の公共に対して広範囲に伝えるメディア」とされています。しかし、 SNS時代以降のマスメディアを定義するには、すこし不十分です。現代のマスメディアの特質は「映画館で映画を観ること」と「家でYouTubeを見ること」の違いを考えることで見えてきます。
  映画館で映画を観るときの特徴は、同じ時間に、同じ場所で、たくさんの人が集まって、同じコンテンツを消費して、人々が消費しているコンテンツを多くの人がわかることです。対して、家でYouTubeを見ることは、人それぞれの時間に、人それぞれの場所で、1人で、人それぞれのコンテンツを消費して、その結果、誰がなにを消費しているのかわからない状態になります。このように、YouTubeやSNSのような個人消費型のコンテンツは、消費がブラックボックス化されていることがポイントです。昔であれば、新聞やラジオ、テレビには、社会への情報拡散の役割が求められていたので、マスメディアには、報道やニュースの意味が強かったのですが、現代ではその役割は弱まっています。つまり、現代的に言えば、マスメディアとは、報道メディアではなく、集団消費型のコンテンツのことなのです。メインカルチャーなき時代の前提に、マスメディアの無いことが言えるのには、こうした理由があります。そして、一方で注目を集めた、個人消費型のコンテンツは、カルチャーに多様なジャンル寛容さを生み出しました。

  2015〜2000年ぐらいまでは、個人消費型コンテンツに注目が集められ、発展してきた時代でした。SNS、YouTube、4DX、低予算映画、体験型コンテンツ、リアル脱出ゲーム、VR、Vtuber、個人のCGブームなどです。これらは、現在では、終身雇用に対する危うさや不安感からくる、多職(ポリワーク)ブームと結び付いて、オンラインサロンやインフルエンサービジネスへと変化していますが、元々は、集団消費型のコンテンツが単純に飽きられたことから始まっていました。ちなみに、ブームの中にCG系のコンテンツが多いのにも理由があります。マスメディアが機能していた時代において、メジャーだったコンテンツの一つにハリウッドCG映画というものがあったからです。ピクサー制作の『トイ・ストーリー』(1995年)以降の約20年間は、3DCGのクオリティが上がり続けた期間でした。実写映画においても、多額の予算と人員をかけて、当時の最先端CGが話題にされた作品も多く制作されましたが、その進化には限界があります。一方で、徐々に人気を集めていたのが、YouTubeをはじめとする低予算で親近感(リアリティ)のある個人制作の映像コンテンツであり、それに対しての、CG業界の打開策がVRであり、映画業界の打開策が4DXだったわけです。

  こうした、他者と共有できない個人的な経験や興味を優先する、個人的なコンテンツのブラックボックス化された消費を楽しむ時代が続くのだと、予想していましたが、最近の傾向は異なります。コンテンツは最適化され、時代は多様性へは向かわなかったのです。

💿 フツウの人がカルチャーに与える悪影響 💿

  本テキストの冒頭で、フツウの人の定義を話しました。本来、少数意見であったものを待つ可能性のある多数派のことです。メインカルチャーなき時代は、まさに、フツウの人を生み出す原因と言えます。メインカルチャーが存在しないことで、フツウの人であることが、自然と強化されてしまうのです。
  また、この時代の悪影響は、シンプルに2点になります。「多様性には向かわず、普通の人が、フツウの人であり続けることを強化し、差別できるものを探し続けること」と、「全てのカルチャーにコアなファンが生まれづらく、他人からの評価を気にせず、無意識的に消費できるコンテンツが好まれること」です。長くなったので、名前を付けましょう。次の項目は、「反多様性」「瞬間的でライトな消費」です。

💿 反多様性 💿

  反多様性とは、その日だけのトレンドを追いかけることから始まります。マスメディア的な集団消費型のコンテンツの地位が下がると、それまで当たり前のようにあった共通の話題がなくなります。例えば、一昔前であれば、一人暮らしであっても、お金持ちであっても、テレビを見ていることは一般的で、「昨日の〇〇見た?」は、会話のテンプレートとして成立していました。多くのテレビドラマが社会現象になったのも、そのためです。しかしながら、現在では、年齢差のある人はもちろん、同世代であっても、昔ほど簡単に共通の話題を見つけることは難しくなったのです。代わって、「YouTubeって、見ますか?」や、「漫画って、読みますか?」のような会話の切り口もありますが、やはり全然違います。テレビ番組の場合は、メジャーなものが限られる中で、裏番組の話題でも、先週の話題でも、すぐに共通点が出てくるものですが、YouTubeや漫画になってしまうと、そうはなりません。さらに言えば、テレビの「昨日の〇〇見た?」という会話は、相手の昨晩の過ごし方を聞いている会話でもありました。しかし、個人消費型のコンテンツの魅力が、消費のブラックボックスである以上、そうしたプライベートな質問は聞きづらいし、答えづらいという意識が生まれたのだと思います。結果として、日常の会話に、相手が知らないものを面白く話すという高い技術が求められました。そんな会話スキルは誰もが出来ることではないので、代わりの努力が、その日だけのトレンドを追いかけることなのです。

  一方で、本来、個人消費型のコンテンツだったものが、マスメディア的な役割を担って、より高い収益を得ることも多く見受けられるようになりました。SNSの「本日のトレンド」機能であったり、サブスクリプションサービスの「話題の作品
」だったりです。この時点で、カルチャーの多様性というのが一時的なものだったことに、気が付きます。そして、意図的にネット上に表示されるトレンドを操作する企業や個人が出てくるわけですが、次第に、炎上コンテンツが多く見られるように変化していきます。
  また、SNSやYouTubeに代表される個人消費型のコンテンツとは、同時に、個人生産型のコンテンツだったことも重要です。それまで、個人活動を行ってこなかった多くのユーザーが、クリエーターになる時代が唐突にやってきました。しかし、本来的に、誰もがクリエーターになれるわけがありません。その中で、求められてきたのが、コンテンツの制作方法を含めた最適化です。それまでは存在しなかった「Instagramといえば、こうするとよい」、「YouTubeといえば、こうすると出来る」というテンプレートが多く作られました。コンテンツは、2021年現在も、最適化され続けています。つまり、炎上コンテンツも一つの最適化だったわけです。

  さて、一度、トレンドを追いかけ始める習慣がつくと、追いかけずにいることに不安になるのが、人間の心理だったのでしょう。普通の人がフツウの人になることを強化するという現象は、この不安感から生まれるものだと理解できます。また
、テレビの「昨日の〇〇見た?」という会話は、決して、その日だけのトレンドに限らず、あくまで、共通の話題や昨晩の過ごし方を訊ねるものでした。しかし、さらに瞬間的で、一時的な、数時間かぎりのトレンドを知れる喜びが、SNSにあったのも事実です。数多の企業や個人が、現在のトレンド入り競争をし、瞬間的なトレンドが増えていく中で、年齢に関係なく人々が強く動かされ長時間惹きつけられるのも、不幸にも、炎上コンテンツでした。
  また近年は、人々のストレスが高まり続けたことも、炎上コンテンツの後押しになったと言えます。アメリカから始まった富裕層や支配階級(エスタブリッシュメント)への不満と、ポリコレを批判する動きは、日本にも影響しました。さらに、コロナ禍が多くの失業や経済的負担を招いたことが決定的でした。DaiGoやひろゆきに注目が集まるのも、彼らが論破ビジネスを行うインフルエンサーであると同時に、社会的弱者から勝者になったことを売りにしていることも一因と言えます。女性やLGBT、ヴィーガンという配慮される対象が増えたのも、結果的な要因でしょう。

  現在では、多くの日本人は、一見するとモラルに違反しない公認で差別してよい炎上して然るべき存在を探し続けるようになりました。当然ですが、差別してよい炎上してもよい人なんて、この世界には1人もいません。批判は必要ですが、感情論と矮小化した意見には悪影響しかなく、責任は法律にしたがって、個人ではなく、組織や制度に求められる必要があります。さいごに、反多様性という現代の流れは、一つ前のセクションの評価性の時代の悪影響のほとんどを導いているのも大きな問題でしょう。

参考として
一見すると、LGBTを評価し、多様性という言葉の危険性を指摘した風の朝井リョウさんの『正欲』のレビューと、「男らしさ」や「女性らしさ」が旧世代の価値観になってしまうことの不安や恐怖を解説した記事があります。興味がある方は、合わせてどうぞ。


💿 瞬間的でライトな消費 💿

  瞬間的でライトな消費とは、その日限りのトレンドを追いかけることが、習慣化されることで生じる現象です。消費しやすいコンテンツに注目が集まることには問題はありません。しかし、結果的に、それぞれのコンテンツにコアなファンが生まれづらいことが、カルチャーの衰退を招く可能性があります。これは、後に解説する「楽しさ=ラクさの時代」「ベタの時代」にも繋がる問題です。作品に対する意識や戦略を変えるクリエーター(アーティスト)は、今後、増々、登場することが想像できます。

  では、カルチャーを支えるコアなファンとは、どのようなものでしょうか? 結論として、2通りの考え方があります。一つは、研究者(記録者)がコアなファンであるという考え方、もう一つは、コアなファンが、カルチャーや教養、知識を広げることが好きな人に都合のよい幻想であるという考え方です。

  カルチャーとは、前の時代の前提があって、積み重ねられていくことで、進化していきます。現在あるものに対して、その技術や主義を受け継いで発展させたり、対抗したりすることで、新しいものが生まれるのです。また、コンテンツは、同世代の他のコンテンツとの影響や関係が見受けられ
記録されることで、その重要性が決まります。
  身近な例を挙げると、アニメのファンが、好きなジャンルに絞ってアニメを見るか、好きな声優に絞ってアニメを見るかで、楽しみ方が変わることがわかりやすいです。ジャンルで見たとしたら、ロボットアニメが好きな人は、ロボットアニメをたくさん見ることで、ロボットアニメの変遷や、その業界の革新的な表現に気が付くことができます。しかしながら、声優で見てしまうと、全くバラバラのジャンルを見ることになるので、コンテンツ同士の比較が成り立たず、表面的な理解に留まるライトな消費を繰り返してしまいます。
  コンテンツに客観的な重要性が指摘できるとは、こういうことです。仮に、とても好きなコンテンツがあったとしても、それが人の目に触れないことはもちろん、そこに同世代性や独自性が認められなければ、良いコンテンツとは言えません。これが、研究者(記録者)的に見たときのカルチャー
の楽しみ方
になります。

  つまり、カルチャーを支えるコアなファンの一つ目、研究者(記録者)とは、コンテンツの重要さを判断し、記録していく人たちのことです。具体的には、研究者、評論家、学芸員、文化事業の担当者、資料館 / 博物館 / 美術館の運営者、雑誌編集者、カメラマン、協会、財団、コレクター、保存会、研究会、クリエーター(アーティスト)の本人、などが挙げられます。現在、カルチャーの記録や保存、普及を目的する職業に就いている人にも、過去には純粋なファンだった時期があるはずです。その点から、瞬間的でライトな消費が重視され、コアなファンの母数が減ることが、カルチャーの衰退に繋がるのではないかという懸念に繋がります。

  対して、コアなファンを定義すること自体が、無意味なのではないかというのが、二つ目の考え方です。理由となる観点は、複数あります。そもそもカルチャーを支えていたコアなファンは数自体は昔も少なかった可能性があること、コアなファンになるには、素質(音感、美的感覚、理解力、思考力など) も必要であること、たとえコアなファンが減ったとしても自然淘汰であること、などです。ということで、クリエーター(アーティスト)を含めた研究者(記録者)の「カルチャーの衰退=自己責任」論についても考えてみましょう。

  例えば、演劇や伝統的な芸能では、ファンが知っている前提の戯曲のようなものがいくつかあります。元のストーリーをある程度知った上で見るからこそ、ストーリー以外の部分に注目し、楽しむことができるのです。しかし、演劇に限らず、そうした知っているべき前提を、現代で鑑賞者に求めすぎてしまうのはどうなのでしょうか?
  また、このような例も考えられます。インタビュー記事だったのですが、紙媒体の雑誌で活躍されていた漫画家が、現時点ではお金にならないにもかかわらず、web用の縦読みマンガに移行するというものです。漫画には、紙でしか表現できない技術があります。コマ割りやスクリーントーン、つけペン、白黒で描く技術などです。webの縦読みマンガに移行してしまえば、漫画家が長年培ってきた技術が無下にされたように感じても不思議ではありません。しかし、同インタビューでは、好意的に挑戦するという回答でした。将来的に、コンテンツの技術や価値が失われることに繋がったとしても、時代に合わせて、現在のファンに向き合うこともまた、プロの姿と言えます。

同インタビューについて、こちらの記事でまとめています。ご興味があれば、どうぞ。💿


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  ちなみに、語弊が出ると思うので、補足しますが、コアなファンではなく、熱心なファンは、むしろ生まれやすいことが指摘できます。オンラインサロンやメン限を用いた推し活などが、新しい宗教と呼ばれていることがわかりやすいです。熱心なファンは、あくまで特定の個人や、一つのコンテンツに限定して推すことが多く、それゆえに熱狂的で過激になりやすいという特徴があります。コアなファンは、複数ジャンルに精通する古いオタクイメージ、対して、熱心なファンは、現代の主流のオタクイメージと言えるでしょう。

趣味を持つことが、アイデンティティの獲得につながる時代性を、ジェンダー論とともに解説した記事があります。ご興味あれば、どうぞ。💿


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  まとめると、瞬間的でライトな消費とは、あくまで、カルチャーを支える側の問題だったことに気が付きます。ここまでの表題のポイントとは違って、普通の人への明確なデメリットはありません。ただ、カルチャーを支える側にいる人や、それを職業にしている人たちにとっては、大きな問題です。特に、従来と同じ戦略では、経済的な収益が難しくなっていることが、課題と言えます。しかし、利益を得るための戦略に振ると、コンテンツの技術や価値が落ち、そのカルチャー全体が衰退していくことにも繋がるのです。以上から、後半では、「楽しさ=ラクさの時代」と「ベタの時代」の解説に移ります。より深く、現代のカルチャーとコンテンツを見ていきましょう。


》「 その4 2周目の世界へようこそ!」
につづく

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