香山の37「カーネル・パニックⅩⅠ」(55)

 飛躍を望んだ俺はさらに突き進んだ。俺は確かに社会への害悪を行使することで自分の幸福を高めていた。暴悪こそが優越を生み出すものだと信じていたのだからね。優越からなる幸福の獲得に、忘れてなはならない致命的な条件があることに気づくまでは。
 いいかい、俺は、周囲の人間をとっかえひっかえに扱うことで外面世界を否定したけどだ。その否定は同時に、世界の存在を是認したことに他ならない。世界の是認に含まれるある種の依存関係は、もう一つの重要な関係の相似だった。そこで見えてくるのが、優越で裏打ちされる幸福実現の致命的な条件とは何か、という問題の解答だ。この条件の認識は逢着を意味した。
 フェイタルな条件、それは優越には固有性の確認が必要不可欠であるということだ。固有性の確認は演繹すれば、自分と他人との間で共有されている一般性の認知が俺の内面世界に存在することを意味するのだ。他者の存在を認め、全体の中で自分の固有性を補足的なものだと呑み込めるまで調べ上げることが必要なのだ。このように固有性と一般性の関係は、火炎と燃料のように切り離せない、哀しき関係なのだ。
 俺が歩んできた、二十六年の狂気の裏側に影のようにしてある仮構は、他人を殺しながら、その他人の補助を得てこそ得られるものだった。自分でも知らないうちに、未熟の酒に酔いしれていたんだ。なぜこんな単純なことに気づかなかったのだろうか。他人が存在しているからこそ己の狂気が可能であることに。
 ……今思えば、周囲の鼻つまみになっても意に介さなかったこの俺が、他人を平等に道具だと見なしていたはずのこの俺が、同じように『他人』のカテゴリーに属するお前の存在を消すのに決心を必要としたときからそれは明らかだった。そう、俺は、かつての鬼畜な俺から変貌をはじめていたんだ。
 俺にとっての固有性の一つとは、そうやって他人を完全に道具と見なせる、いわば悪魔的な冷酷だった。どの人間も他人が道具である風を纏っているだけだ。卑近なところでいえば、家族なんかが天秤にかけられると即座に自己犠牲を払ってしまおうとする。それは家族が道具であると割り切れていないからだ。そして、鬼畜の俺が決心しても切れないお前……お前の存在が俺の固有性を消そうとしていた。
 ならばお前を殺すのか? いいや、それは叶わない。それを思うと俺の精神が不能に陥るからね。すると俺は認識を改善させるに至ったよ。

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