明の14「積木遊び」(31)

 私は、肉体にとどまらぬ人の殺意を未だかつて見たことがなかった。あの拳は、確実に私を殺すつもりだったのか、いいや違う。彼の発言からも明らかなように、彼は私を殺すつもりなんぞ毛頭なかったのだ。彼は私の手で殺されることを拒み、自殺によって私から永遠に雪辱を奪ったのだ。あの拳に殺意があったようには思えない。死とは永続性をもつ概念であることを、私は心底味わされたのだ。果たして自分にそんなことが可能とは、思えなかった。彼からそこまでの狂気を引き出したのに、それが全く何の喜びも得ることができなかった。
 そして、彼が言うように殺人の報酬なんぞ、私や貫一には何ら意味を持たない。その狂気を発揮するための引き金に過ぎなかった。彼は狂気をもって私の狂気を上回り、その狂いっぷりを私の目に焼き付け、冥土へ旅立って行ったのだ。これは私の肉体に焼き印のような消えない傷跡を残した。地獄から私の焼き印を見上げ、腹を抱える貫一を見ているようで、私は怒涛の恨みを覚えた。
 私はこれが解離であることを知った。精神の未成熟なものが、強いショックを与えられたときに一時的に記憶を消去し、自身をそのショックから守る機構がそれである。するとあの合わせ鏡の不可解な世界は、私が私に、貫一の首にすくみ上ることを認識させぬように作り上げた、夢のようなものだったことになる。
 これは、自分にとって貫一の首が恐怖の対象としていかに優れていたかを表すのみにはとどまらない。解離とは、一般には幼少期に起こりやすいものである。つまり、いかに私が未熟であるかをも鮮明に表すものだった。ああ……二十六年の空洞たるや!
 血の水たまりができていた。それは彼の半ばの首から広がっていった。断面からのぞける食道が、こちらに穴を向けていた。そこから何かがうねりながら出てきそうだった。
 女が叫んだ。ドアが開いて、こちらへ走ってきた。ナイフを拾い上げた私は、女の顔を確認せずに逃走した。
 構内を走りながら、私はどうにかして死人を再び殺す手段を考えた。しかしどれもが後の祭りである。死人を冒涜したところで死人は何も苦しまない。人が死ねば無に帰すという私の断言は、今私に牙をむいていた。牙は深く刺さり、なかなかに抜けずこれから先も苦しんでいく。
 途切れそうな意識の中で、私は博多駅の中を走っていた。息を切らしているし、頭を強く殴られたために痛かった。シャツには血がついているが、素早く走っているために、それを気に留める人間がいなかった。視点が定まらず、自分が何を見ようとしているのかが分からなかった。足がもつれて転んだ。恥ずかしいとは思わなかった。誰だって、これだけ動揺していれば転んでも不思議はないのだ、と考えたのだ。しかし、この動揺は私の精神的な骨折を予感させる、大変に気味の悪い同様だった。
 走りながら私は、山中の台地で焚火が赤々と燃え上がるような映像を思い浮かべていたが、何の変哲も無いこの映像が何を暗示するのかは、振り返ってみても分からなかった。

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