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僕は爺ちゃんの死を素直に悲しめなかった

愛知県出身、25歳の男です。大学時代を京都で過ごしたあと上京して3年間会社員をやっています。

2020年に立ち上げたこのnoteアカウント。立ち上げた目的は、恋愛日記を書くことでした。6話に渡って約40,000字書きましたので、是非読んであげてください。

久々にこのnoteを開きました。あまり人に言えない僕の悩みを書いてみようと思って、、、。

僕は、会社経営をしている父のもとに産まれました。この境遇が生む悩みはあまりにも大きいのです。

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今、僕は人生の岐路に立っている気がしている。やや感情的ではあるが、最も自分を表現しやすいnoteに、事のあらましを書いてみることにした。

僕の爺ちゃん

父方の爺ちゃんが2月に92歳で亡くなった。

爺ちゃんは、67年前に愛知県で会社を立ち上げた。30年前からは僕の父親が社長。爺ちゃんは会長になった。今では160名以上の社員がいる会社に育った。僕は、この会社の3代目社長最有力候補だ。父親とは時たま将来のことを話し合ったりする。

爺ちゃんは会社を愛していた。亡くなる2か月前まで会社に通って仕事をしていた。元気すぎる爺ちゃんだった。

これは爺ちゃんが大学生の時の写真。どことなくヒョンビンに似ている気がする、、、。

無題2

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2020年10月に、爺ちゃんの奥さん、つまりは僕の祖母が老衰で他界した。

爺ちゃんは2020年12月頃から一気に体調を崩して、愛知県内の私立病院に入院した。日に日に症状は悪化。爺ちゃんはまともに話すこともできなくなり、息をするだけで精一杯、という状態になっていった。

こんなご時世だ。爺ちゃんが入院した12月は、親族であってもお見舞いが許可されていなかった。

しかし、1月下旬になって更に体調が悪化。病院の先生曰く「いつ亡くなってもおかしくない」という瀬戸際に。

病院から「もう近いうちに亡くなってしまうので、1日15分まで、かつ、1度に最高でも2人までなら、親族がお見舞いしても良い」という許可が下りた。

爺ちゃんへのプレゼント

僕は18歳まで愛知県で過ごしていたが、大学入学と同時に京都に移り住み、社会人になるタイミングで上京。東京生活ももう3年になる。時が経つのは早い。

僕は、仕事が休みの2月1日(日)に地元愛知県に帰って、父と二人でお見舞いすることにした。お見舞いするときまで爺ちゃんが生きていてくれますように、、、と願った。

僕は、「爺ちゃんに何かプレゼントをしよう」と考えた。何か少しでも喜ばせてあげて、一瞬でもいいから元気になってほしい。

どんなプレゼントがいいんだろうか、、、僕は懸命に考えた。

で、結局、僕は「自分の写真」をあげることにした。

カメラを副業でやっている友人に無理を言ってお願いして、自分の写真を撮ってもらった。

孫の自分の顔は、もしかしたらちょっと爺ちゃんの若い頃に似ているかもしれない。ちょっとでも若い頃を思い出すキッカケになれば、、、。そう思って、自分の写真をプレゼントに選んだ。

自分の写真をあげたら喜ばれるだなんて、自惚れかな。そう自問自答もした。だけど、自分にはなんとなくだけど分かったんだ。きっと爺ちゃんは僕の写真を見て、喜んでくれるだろうなって。

爺ちゃんは26歳で自ら会社を立ち上げて今までやってきた。めちゃくちゃ目立ちたがりで、ビックマウスで、カッコつけたがる。そんな爺ちゃんに僕の写真を見せたら、「ああ、こんな風に自信満々な顔で写真を撮っちゃうあたり、俺の孫らしいな」って思ってくれるんじゃないかって、そう思ったんだ。

撮影場所は、日比谷公園の市政会館にした。爺ちゃんは、70年前に東洋大学に通っていた。70年以上前から建っている建物を探したら、市政会館がそれだった。もしかしたら70年前に爺ちゃんもここに来ていたのかもしれない。彼女とデートでもしたかもしれない。そんな想像を働かせながら、市政会館の前で写真を撮ってもらった。

爺ちゃんのために。喜ばせるために。その一心で、とにかく笑顔で、爺ちゃんみたいに自信満々に背筋をピンと伸ばして。

結果、人生で最高の1枚が撮れました。

無題

お見舞いで起きた奇跡

2月1日。僕は現像した写真を持って、新幹線で愛知に向かった。父親に連れられて、爺ちゃんのもとへお見舞いに向かった。

爺ちゃんの姿は変わり果てていた。親族から聞いてはいたものの、爺ちゃんの姿は想像を絶するものだった。

息をするのも辛そうで、ゼエゼエと嗚咽している。体は骨と皮だけ。

話しかけても全く返事がない。2週間前から全く声を出せなくなっているらしい。

そんな極限の状態で、92歳の爺ちゃんが生きている。それが何だか不思議にも思えた。

僕は、大きめに現像した写真を爺ちゃんの顔に近づけて、何度も何度も声を掛けた。

爺ちゃん、聞こえる?
今東京で頑張っているよ、こんなに立派になったよ。
写真、市政会館で撮ったんだ。
爺ちゃん、70年前に東京にいたんだよね。
覚えてる?

5分以上、必死に呼びかけた。。。

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奇跡が、、、起きた。本気の思いって、通じるんだ。

父も僕も、驚いた。

爺ちゃんの絶え絶えの息が、少しずつ落ち着いてきたのだ。そして、薄っすらと目が開いた。

ゆっくりとゆっくりと、僕の方に顔を向けてくる。爺ちゃんの黒目は、僕の顔と、僕が映る写真を捉えている。

爺ちゃんは口をパクパク動かす。何かを言いたそうにしている。でも、声にならない。

爺ちゃん、何?
頑張って声出してみて。

そう問いかけると、爺ちゃんが言葉を発した。ハッキリとは聞き取れなかった。でも、同じ言葉を3回発した。

かすかに聞こえた声と、その口の動きからして、3回発したのは僕の名前だった。間違いなかった。僕の名前を3回呼んだ。

爺ちゃんの右目からは、一筋の涙が流れた。綺麗な涙だった。僕が人生で初めて見た、爺ちゃんの涙だった。婆ちゃんが亡くなったときも、爺ちゃんは泣かなかったのに、、、。

15分の面会時間はここで終了。

爺ちゃんは疲れたのか、また眠りに落ちていった。

僕の写真は、病室の棚に立て掛けておいた。

爺ちゃんが僅かだが喋ったこと、そして、涙を流したこと。家族や親戚に報告すると、彼ら・彼女らは驚いていた。2週間前から言葉を発せずにいたのに、声を出せたなんて凄いねって。東京から帰ってくるのを待ってたんだねって。

ああ、少しは爺ちゃん孝行してあげることができたのかな、、、。そんなことを考えながら、僕は新幹線で東京に戻った。

突然の爺ちゃんの死

奇しくも、僕がお見舞いをした日の夜。

爺ちゃんの体調は急変した。翌日の昼、12時18分に息を引き取った。そう。僕がお見舞いに行った翌日に亡くなったのだ。

爺ちゃんは僕のことを待ってくれていたのだろうか。聞くところによると、爺ちゃんが入院してから最後にお見舞いに来た親族は僕だったらしい。(一族の中で唯一愛知県に住んでいないのは僕だけなので、最後になってしまった。)

ギリギリ生きている間に会えてよかったな。こんなドラマみたいなことってあるんだな、、、と、僕は何とも言えない気持ちになった。

僕は、2月2日(火)から5日(金)まで会社を休む申請をして、通夜と葬式のために再び愛知県に向かった。

このお通夜と葬儀を経て、僕の感情の堤防が決壊して溢れ出すことになろうとは、この時は全く予期していなかった。

葬儀場で

葬儀場には、かなり多くの献花が飾られていた。さすが、67年間も1つの会社を育て続けてきただけある。電報の数もかなり多かった。

通夜と葬儀には、多くの会社関係者が参列していた。18歳から地元を離れて過ごしている僕。子供の頃に会ったことがある人も何人かいた気がしたが、思い出せない。

僕の父親と母親は、葬儀場に着くなり、僕をあちこちに連れ回して関係者に挨拶をするように言ってきた。僕は、誰かもよくわからない人たちにひたすら自己紹介をして頭を下げ続けた。

「数年後にお世話になるかも知れませんので、、、」と両親は言って、僕を次々に紹介していくが、僕の心のうちはとても複雑だった。

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というのも、、、僕は、爺ちゃんが創業して父が現在社長を務める会社の3代目社長候補なのだ。父親は現在63歳。僕とは37歳も歳が離れている。

会社を継ぐかどうか、、、まだ、僕は決めかねている。

僕は、愛知県の田舎に生まれて、大学進学を期に京都に旅立った。社会人になるタイミングで上京。実家を離れて、もう7年も経つことになる。

長男である僕は、子供の時からずっと、「自分はいつか会社を継がなければならないのかもしれない」ということを意識して生きてきた。

別に意識したくてしていた訳ではないんだが、周囲の人たちにそう言われるのだ。

将来会社を引っ張ってね。頼りにしているよ。
お父さん社長なんでしょ?じゃあ次期社長だね。

大学を卒業して、東京に本社を構える大手企業に就職を決めたときもそうだった。

一族で一番のエリートだね。これで会社も安泰だね。

こんな悩み、多くの人には理解されないかもしれないが、、、跡継ぎ息子って、凄く凄く悩むのだ。今も悩んでいる。

偶然この家系に生まれて、僕はその恩恵を存分に受けて育った。裕福な親に何でもやりたいことをやらせてもらい、何不自由なく生きてきた。自分は何故か分からないが、育ちがよさそうだねってよく言われる。

でも、僕は、そんな人生に100%肯定的ではなかった。僕は偶然この家に生まれたけど、だからといって、この会社を継ぎたいわけじゃない。自分は自分の人生を生きてみたい。

だから地元の大学を受けずに京都に行った。就職でも東京を選んだ。少しでも目を地元から背けたかった。そうすれば、実家の会社のことを考えずに済むから。考えたくないから。

でもその一方で、会社に対してとてつもない感謝もある。この会社のお陰で今の自分がいる。好き放題やりたいことをさせてもらえたのも、親の経済力があったから。それは紛れもない事実。

だから、長男である自分が会社を継いで何とかしてやりたい、そういう気持ちも無くはないんだ。長い人生。社員160名の会社を経営できるチャンスなんて普通巡ってこない。やってみたい気持ちもある。

父親が還暦を迎え、元気に働ける時間も残りわずかになってきた。先日は父親が突然倒れた。幸いなことに何事もなかったようだが、こういう出来事がある度に僕はいつも思う。

ああ、明日にでも今の会社を辞めて地元に帰らないといけなくなってしまうのかもな、、、

と。

決断の時は刻一刻と近づいている。会社を継いでみたい、でも継ぎたくない。とてつもない矛盾を抱えて僕は生きている。

両親とは、時々将来のことを話し合う。僕の気持ちは毎回のように揺らぐ。

継ぎたいけど、でもまだ踏ん切りがつかない、、、。

両親に対しては、いつも微妙な態度で結論を濁している。

こんな僕は、突如として情緒不安定になってしまうときがある。突然将来が怖くなるのだ。

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話は戻る。

僕は葬儀場で、会社関係者を両親に何人も紹介された。「数年後にお世話になるかもしれませんので、、、」と母。

僕は、怖くなった。恐ろしくなった。

うるさい。これ以上紹介するな。ひとりにさせてくれ。僕は別に継ぐだなんて決めてないんだ。勝手に決まったみたいな設定にするな。

その場にいられなくなって、トイレに駆け込んだ。

何故こんな感情が起きたのかと言うと、葬儀場で会社関係者を紹介された僕は、「会社を継いだ自分」をまざまざと想像させられてしまったのだ。それはあまりにもリアルで、感じたくもない手触りをまざまざと感じた。

「会社を継ぐ」。口で言うのは簡単だ。でも、それは、160名以上の社員と運命を共にするということ。生々しい人間関係から逃げずに何年も生きていくということ。地元で何年間も生きていくということ。

そんな将来の自分を想像した時に、どういうわけか吐き気が襲ってきた。

僕は本当はどうしたいのか。そんな人生を望んでいるのか。

様々な土地で様々な人達と生きてきた7年間で世界の広さを知ったのに、狭い地元に戻って会社を継いで何年間も過ごすなんて、自分にそんな決断が出来るのか?

何も考えたくない。もうこれ以上会社関係者の顔を見たくない。

僕の気持ちはどんどん混乱して、収拾がつかなくなっていった。

僕は爺ちゃんの死を素直に悲しめなかった

通夜が終わって、残すは翌日の葬儀を残すのみになった。

これをお読みの貴方はご存じだろうか?通夜が終わると、遺体は控室に運ばれる。で、親族はこの控室で故人と一緒に泊まることができる。

僕はどういう訳か、泊まる役に指名されて、なんとなくそれを引き受けた。(控室の広さの関係で、今回は最大1人しか泊まれなかった。)

一度実家に戻り、荷物を葬儀場にひとりで向かう。

実家を出ようとした時、僕の姉がこう言った。

あんた、跡継ぎだもんね。一緒に寝てあげたら爺ちゃん喜ぶわ。

僕の頭に瞬時に血が上った。

僕が跡継ぎ?勝手にお前が決めるな。継ぐか継がないかでこんなにも悩み苦しんでいるのをお前は知らないだろう。そんな簡単に跡継ぎとか言うんじゃねえ、、、。

決められた人生なんて御免だ。ふざけんな。不覚にも、そんな感情がこみ上げてきてしまった。

吐き出そうとした暴言を必死に胸にしまって、姉を無視して家を出た。

葬儀場の1階の控室。爺ちゃんが入った棺はそこに置かれていた。控室は畳張りで、布団が一式置かれている。風呂や洗面台もアメニティも充実している。

真冬の夜空の下、僕は1時間ほどランニングした。小学生の時に何度も通った、懐かしい公園。友達と何度も練習しに来たテニスコート。爺ちゃんに連れられていった大きな広場。いろんな場所を巡っていたら、あっという間に1時間が経っていた。

帰りのコンビニで酒を2本買って、1本は爺ちゃんの前に手向けて、もう1本は自分で飲み干した。かなり疲れていたので、僕はそのまま布団にくるまって寝た。

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夜が明け、昼過ぎから葬儀が始まった。夕方には火葬が済んだ。

実家への帰り道。家族と車に乗った。

バタバタから解放された安心感からか、母がいろいろと雑談をしている。

ほんと会社の人間関係って大変でね、将来あんたが帰ってきてこの大変な人間関係の中に入ってくかもしれないと思うと、ホント思いやられるわ、、、

母に悪気は無かったと思うのだが、センシティブになっている自分にとってはどうしても聞き捨てならない一言だった。

頭に血が上り、僕は母に怒鳴ってしまった。

いちいちうるせえ。勝手にいろいろ決めるなよ。ただでさえ悩むのに、そんなネガティブなこと言われたら益々帰りたくなくなるわ。二度とそういう話題出さないでくれ。

でもどうしても自分を抑えることができなくて、声を荒げてしまった。車内の空気は凍った。

爺ちゃんの死を素直に悲しめない。決して思いたくなかったのに、「爺ちゃんのせいでこんな悩みを抱えさせられている」という気持ちが湧いてきてしまう。爺ちゃんが作って大きくなってきた会社。跡継ぎ息子としての僕。

僕は誰とも話したくなくなり、一人きりで大型銭湯に行って深夜まで過ごした。

相当疲れていたのか、翌朝はなかなか起きれずに昼過ぎに起床した。

家族には気を遣われてしまっているが、それでも僕の心中は複雑だ。25歳の自分。今後の人生でどう動いて、何を成し遂げていくべきなのか。その先に「親の会社を継ぐ」という帰着はあるのだろうか。葬儀場でリアルを感じた「継いだ後の生活」。そこに飛び込む勇気が今後自分に生まれるのだろうか。

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僕は段々、自己嫌悪に陥っている自分自身に嫌気がさしてきた。本当はもう少しゆっくり家で過ごしたかったが、家族にあわせる顔も無くて、荷物をまとめて東京に帰ることにした。

キャリーケースに服を突っ込んで、上着を着ようとすると、母が声を掛けてきた。

今日何も食べてないでしょ、オムライスでも作ってあげようか?

オムライスは、母が作る中で僕が最も好きな料理だ。

強がっている自分の気持ちが一気に緩んで、涙が出そうになってしまった。

いや、いいわ、お腹空かないし

そう言って僕は家を出て、駅までひとりで歩いた。つんざくような寒さがキツい。

不意に、ドッと涙と鼻水が溢れてくる。すぐに目の前が見えなくなった。母が玄関で見送ってくれているのを分かっていたが、こんな顔を見せられないと思って振り向かなかった。

自分が情けなかった。爺ちゃんの死を素直に悲しむことが出来ず、自分の将来ばかりを案じて、自己嫌悪を家族にもぶつけて、強がって一人で歩いている。

思い返すといつもこうだ。人を頼りきれず、自分の中に思いを閉じ込めて辛い思いをして、それを他人にぶつけて悲しませてしまう、、、。

ローカル線に乗って名古屋駅に着いた時には15時を過ぎていた。朝から何も食べておらず、流石にお腹が空いた。キオスクで酒と弁当を買って、新幹線の自由席に乗った。

新幹線でも泣き続け、涙は枯れた。

降り立った東京の空はすっかり薄暗くなっていた。

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人の死が、生きている人に様々な感情を生む。僕は、爺ちゃんの死をキッカケに将来の自分のことをより深く考えた。そして怖くなった。爺ちゃんの死を素直に悲しめなかった。

事業継承という深い問題。今会社経営をしている父も悩んでいるだろうし、母もそうだろう。

子供時代から悩み続けて、今も悩む僕。爺ちゃんの死によって、問題に対峙しないといけないその瞬間がもう間近に来てしまっていることを、僕は体感しつつある。

この悩み、シェアできる人が身の回りに殆どいないのも辛いのです、、、。会社でこんなことを言っても当然理解されない。友人もそう。多分、同じ境遇にないと、何に悩んでいるのかを殆どイメージできないのだと思う。

父とは「継ぐとしたら、遅くともあと5年後くらいに、、、」と話しているが、果たしてどうなるかな。。。

また何かあったら書こうと思います。

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