「業績」と「人格」を切り分ける習慣
日本人が、という大きな主語で語ることは躊躇われますが、私たちがよく海外の人から指摘されることの一つに「業績」と「人格」の切り分けができていないというものがあります。
「あんな素晴らしい作品を書いた人は人格的に優れているのだ」という思い込みをするケースは多々あるようです。
この原因の一つに学校教育も関わっているように日々感じます。
スポーツマンは人格者か
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉は、スポーツをしている人間が精神的に優れているという文脈で使われることが多いようです。
(そもそもは意味が異なり、願望的な意味合いのようですが)
しかし、残念ながらメダリストであっても必ずしも清廉潔白なわけではないようです。事実、メダリストで犯罪を犯したり、反社会的な団体と関わりを持ったりする事例は存在します。
スポーツをすることで困難を乗り越え、人格が形成されるという主張はあくまでそういったケースが存在するという事例を上げたに過ぎません。
そもそも人格形成のためにスポーツをするわけでもなく、スポーツによる高い業績を人格に読み替えることが間違いであることは自明です。
学問や芸術的業績と人格
これと同様に、学問や芸術で優秀な実績を上げた人間の人格を称賛する傾向が私達の社会には存在します。
マスコミはノーベル賞や映画賞の表彰のあとに、受賞者の苦労話や努力の軌跡をお涙頂戴のドラマ仕立てで放送します。
しかし、その影に罵声を浴びせられ、時には暴力を振るわれた助手やスタッフの存在はありません。
(そうした事例はゼロではない、ということで)
有名な映画監督がスタッフや女優にセクハラを行っていたことは記憶に新しい話です。
平和を歌っていた歌手が問題行動を度々起こしていたことなども有名な話です。
専門外の権威として扱う
似た事例として、番組のコメンテーターなどで専門外のことについて意見を聞き、権威付ける事例があります。
芸術家に政治問題や外交問題に関しての意見を聞いても、市井の一庶民に意見を尋ねることと大差はなく、全国ネットで聞く意味はないでしょう。
学者に意見を聞くことは、専門の分野に関しては異論がありません。
しかし、ノーベル賞受賞者に教育関係の意見を聞くことにどれほどの意味があるのでしょうか。
彼らは学問上の業績はあっても、少なくとも初等中等教育の専門家ではありません。
「業績」の評価と「人格」を混同しない
ここで勘違いしてはいけないことは、彼らの専門の「業績」は間違いなく称賛されるべきものということです。
スポーツ、学問、芸術などにおける発展に寄与し、新しい時代を築いたその業績は人類史に残る栄誉です。
しかし、彼らの「人格」や「人間性」、あるいは専門外の分野の知見に対し、その「業績」を投影し、幻想を抱いてはいけないのです。
この考え方はある程度大人になってしまうとなかなか矯正することは難しいのではないでしょうか。
だからこそ、小さい頃からきちんと身につけることができるように、せめて教員はそういった姿勢を意識的に持つべきではないかと私は思うのです。
補遺:だから私は「尊敬」が苦手
以前書いた記事に以下のようなものがあります。
私は他人を「尊敬」することが苦手です。
なぜかと考えたとき、「尊敬」という言葉には全肯定のニュアンスが含まれるためなのかもしれないと感じました。
「尊敬」という概念が「業績」と「人格」の切り分けをはっきりしない考え方のように思えるからなのかもしれません。
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