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どうしても『それ』に名前を付けて安心したくなる(日記)

今回の文章は普通にエッセイを。

こうして正直に、隠したい自分もなるだけ表現して文章作品として昇華させられたらという想いはずっとずっと昔から持っていた。けれど、幼い頃から家族や自分のことは隠さなくちゃと思いながら生きてきたもんだから、大人になってもずっとその習慣は続くわけで。ようやく、今年から、というか昨日から隠すのやめようという気持ちを実際に行動で作品として表現していこうという決意ができた。ようやく、やっとだ。時間かかったなぁ。

自分をさらけ出す決心をするまで、こんなに時間がかかった理由は何だったのだろう?
そのひとつに、病気とか障害とか専門的な知識を調べすぎたことがあるかもしれない。生きづらさを持っていると、どうしても『それ』に名前を付けて安心したくなる。だから寝ずに調べまくっていた時期があった。図書館にある本はほぼ制覇したし、ネット上の情報も論文もほぼ網羅して調べまくっていた。専門家に相談したりもした。例えば、私の場合だったら、性同一性障害とか発達障害とか双極性障害とかアルツハイマーとか、そこからまた深く何種類にも深く掘り下げて分類することもできた。けど、それで結局、何も変わらなかった。人に説明するのに便利というくらいで、自分の中身が変化するわけでもないし、何か治療とか対策とかするとしても、何とどれも同じ薬を使うし、同じようなアプローチの治療だったりする。気づいたら病名、障害名に合わせに行っている自分もいたりした。

何だこれは、数年たってバカらしくなって、もう名称を気にしないことにしてみた。

そしたら、楽になったかというと、そうでもなくて、今度は別に苦しみが生まれた。ちょっとした苦悩や悩みを発言すると、親切そうな人たちが、それは○○という障害です!それは○○という病気です!受診しましょう!さあ早く!みたいな声をかけてくれる。すでにその道はうんざりするほど、通ってきたのに、また戻らせようとするのか、この人たちは、と悲しくなったりした。ネット上ではこれまでやってきたことをぜんぶ伝えるわけにも行かず、言われる度に黙って、悔しさを飲み込んだ。実際は、そんなに頻繁に直接言われたわけじゃなくて、他の人が言われて炎上してるのを見かけて、ただ勝手に怯えてただけなんだけど。でも、次は自分がターゲットになるかもしれない、そう思うと怖くて、素直に表現できずにいた。

もう病名とか障害名にこだわるのはやめにする。必要なときは使うだろうけど。使いたい人は使えばいいし、もう人から物を知らないおバカだと思われても気にしないようにする。眠れないときは寝なければいいし、動けないなら動かなければいい。仕事できないときは、仕方ないんだから、助けを求めるしかない。自分にしかできない何かをひたすら続けていたら、いつか実になって楽になるから。あっ、でも専門的な勉強はちょこちょこしてる。やっぱり苦しいときとか偏った思考になるから、それを解すのに役立つから。でも参考にする程度で、なるべく自分の内側の声を聞いてあげることが大切なんだろうなと今は思ってる。

そして、甘えたいとき、悲しいとき、寂しいときに助けを求めること。これがむずかしいんだけど、もし助けてくれた人、癒やしてくれた人がいたら、できる範囲で感謝を伝えるようにしてる。その感謝の伝え方がまだまだひねくれてはいるんだけど。

これから文章を書くときは、いわゆる人生指南的な内容は書かないようにしたい。これまで私は自己啓発とか何かあからさまに人の役に立つことしか、書く価値がないと思い込んでたから、実際、自分が読んでる文章とか心打たれた文章たちって、自己啓発的なものじゃなくて、もっとかっこ悪い何かどろどろしたものを表現したものばかりだってことに気付いた。大勢には伝わらないかもしれないけど、きっとどこかの誰かには響くと信じてる。だから続けていこうと思う。

自分の内側から発せられる何かを、掴んだと思ってもすぐに消えてしまいそうなそれらを、1枚でも多く作品にしたい。同じ感性や同じ心象風景を持つ人たちの元に作品を届けたい。と願って日々描いています。またサポートして下さることでいのっちの電話に使える時間も作れるので助かります!