特別編:鮮血ソーダ・メランコリー。
「『鮮血ソーダ』」
私はカウンター席に座ると、煙草を咥えながらドリンクを注文した。
「承知致しました」
グレーアッシュ色に髪を染めたアルバイトの男が、甘い顔にもっと甘い笑みを浮かべる。
「少々お待ちください」
かちっ、かちっ、かちっ、しゅぼ……。
オイルが切れかけたライターで、私は煙草に火を点けた。
「オーガンズ」。この街でしか手に入らない、煙草の銘柄。動物の臓器のフレーバーを味わえる。私の愛用の煙草は、女の肺フレーバー。
「ふぅー……」
そんな煙草の煙を肺に送り、勢いよく吐き出す。もわもわと真っ白な負の感情は天井へ昇っていき、暗さを際立たせる照明の光を撫でて消えた。
「お待たせ致しました」
グレーアッシュ色の髪のアルバイト(ここでは、『グレーアッシュ』と呼ばれている)は、カウンターに赤色のコースターを敷き、真っ赤に染まった炭酸弾ける液体の入ったグラスをカウンターに置いた。
「鮮血ソーダです」
「ん」
私は左手の人差し指と中指で煙草を挟んだまま、鮮血ソーダの入ったグラスを口に付けて傾けた。
じゅわじゅわじゅわ……。
強烈な刺激とエロさすら感じる苺の甘さが、唇から、舌、喉へと通り過ぎていく。ニコチン中毒者の飢えと喉の渇きを同時に潤したことで、全身の血液がどくどくどくと元気よく流れ始めるのを感じる。全神経が研ぎ澄まされていく。
「ぎゃはははははははははは」
背後から、汚らしい笑い声が上がる。それだけじゃない。喘ぎ声や呻き声、絶叫も同時多発した。
ここは、殺し屋管理組織、「胔」の待合室。都内で唯一、年中湿度の高い街、「湿気の街」のラブホ区域にあるラブホ、胔の地下にある部屋。
胔は特殊なラブホで、通常のラブホとしての営業と、会員登録をしている殺し屋の管理を行なっている。1〜3、5階は、ラブホの部屋として活用されている。ここ、地下1階は、殺し屋の待合室だ。4階は、依頼人との取引、殺害、死体処理……と、殺し屋専用の部屋がある。金を払えば、殺し屋のみ4階にある部屋で宿泊も出来る。
私は胔に所属する殺し屋、「凶暴ちゃん」。名前は、私の飼い主が付けてくれた。黒髪のショートウルフと、肉食動物の歯を刃にした愛用のナイフ、「喰」を持つ女をこの街で見かけたら、間違いなく私だろう。
「すぅ……」
再度、煙草の煙を真っ黒な肺へ送り込みながら、目だけで背後を見る。
この地下室は、薄暗いバーのような作りになっている。9人が座れるL字型のカウンターと、点在する立ち飲み用のラウンドテーブル、カウンターと向かい合う壁には黒色の革製ソファーが並んでいる。
客から依頼を待つ殺し屋達が、ここで各々好きなように待機している。煙草や酒を嗜んだり、薬をキメたり、賭け事をしたり、殺し合ったり、セックスをしたり。
私は真ん中辺りのカウンター席で、煙草を吹かしながら、鮮血ソーダをちまちま飲んで、殺しの依頼を待っている。
「お疲れですか?」
殺し屋の武器の手入れをしながら、頰に靨を浮かべて心配そうに微笑むグレーアッシュは、殺し屋ではない。ただただ、胔の待合室でバイトをしているだけの変な奴だ。飲み物やちょっとした料理を作ったり、清掃(待合室で殺し合いをした殺し屋の死体の掃除もする)をしたりする。そんなバーのマスターのような業務だけではなく、殺し屋の武器の手入れや、胔の管理人である「殺戮婆」との業務連絡等も行っている。
びっくりするぐらいスーツが似合うイケメンだからか、誰も彼を殺そうとはしない。きっとブスな男共は、次元が違い過ぎて嫉妬心すら湧かないのだろう。
「……お疲れ? 何で」
私は自慢の三白眼で、ぎろりとグレーアッシュを見上げた。私が童顔である為、舐められないように身に付けた技だ。私の飼い主が訓練してくれた。
「浮かない顔をされてましたから。……気の所為なら、いいんですけどね」
グレーアッシュは、常に中立的な立場でいようとする。心の中に踏み込んできそうで、玄関のドアを開ける前に去っていく。このもどかしさが、話し手の口を自然と動かす。
「私に不満なんてない。飼い主からは、きちんと愛情を貰っているから」
「よかったです。とても素敵な飼い主さんなんですね」
「うん。素敵だ」
私は数回頷くと、カウンターに置かれた硝子製の灰皿に短くなった煙草の先端を押し付けた。じゅっ、という命の灯火を無理矢理消したような儚い音が鳴る。
「『凶悪ちゃん』は、とても素敵なんだ。仕事を頑張ってきた私の頭を撫でてくれる。褒めてくれる。……あ、凶悪ちゃんってのは、私の飼い主のことだ。『よくやったじゃーん、凶暴ちゃん』って、優しい声で愛をくれんだ。いっぱい……いっぱいな。な? 羨ましいだろ」
「はい。とても羨ましいです」
心からの言葉なのか、表面上だけの言葉なのか判断が付かない絶妙なトーンで、グレーアッシュは微笑んだ。すると、両目を天井に向けて、少し考える仕草をしながら尋ねた。
「凶悪ちゃん様は、飼い主……と言うことは、食事も提供してくれるのでしょうか?」
素振りだけでもいい。大好きな凶悪ちゃんに、他人が興味を持ってくれる状況が嬉しかった。
「美味しいご飯をどこから買ってきてくれる。あんなに美味なお惣菜を売ってる店を知ってる凶悪ちゃんは、物知りなんだ。私のお気に入りは、『縊死オトメンチカツ』だ」
「へー。……買ってきて、くれるんですね」
「うん」
私は自信満々に頷いた。
「家も用意してくれる。食事も衣服も愛液も愛も、何かもかも! 飼い主として申し分ない」
私は鮮血ソーダをちびりと口に含んだ。
「……だから、時たま、夜も眠れないぐらい不安になることがあった。こんなに素敵な飼い主なんだ。私のような人を殺すことしか取り柄のないヘドロペットは、いつか捨てられるんじゃないかってな。苦しくて苦しくてしょうがなかった。感情を出して少し楽になる為に、憂鬱をテーマにした歌を聴きながら、出ない涙を無理矢理出した夜もあった」
不安は、紛らわすものを欲させる。煙草を咥えて、火を点けた。煙と共に、負の感情を天井へと吐き出す。
「聞いたんだ。私は凶悪ちゃんに何が出来る? どうすれば、あなたの人生にプラスになることが出来る? って」
一通りやることが終わったのか、グレーアッシュも煙草に火を点けて、私の話を聞いていた。
「そうしたら、私の頰を両手で挟んで、優しい声で言ってくれた。今まで通り、金と身体を提供してくれればそれで十分だよ、ってな。凶悪ちゃんの笑顔で、今までの悩みが一気に吹き飛んだ」
「お金って言うのは……」
グレーアッシュは少し怪訝そうな顔をした。
何故、そんな顔をすんだ。こいつは、人に感謝の気持ちを感じる器官が欠如しているのか。
「ここで稼いだもん、全部に決まってるだろ。私なんかを飼ってくれんだから、凶悪ちゃんの生活が困らないようにしたいんだ」
「あー……」
グレーアッシュは何かを察したような顔をすると、不憫そうな目を私に向けた。まるで私と凶悪ちゃんの関係を否定されたようで、いや、それ以上に、大好きな凶悪ちゃんを貶されたようで、その態度が気に食わなかった。
「いや……おい」
私は、まだ半分程ある煙草を灰皿に押し付けた。
「凶悪ちゃんは、とても大変なんだ。とても優しい人だから、きっと負の感情を上手く吐き出させずに溜め込んでしまうんだ。この前だって、馬鹿でかい憂鬱と闘ってた。あまりにも辛そうだった。私の身体で発散させなきゃいけない程だった」
私は両手を握り締めた。
「凶悪ちゃんは私を犬用の檻に閉じ込めて、『林檎の麻薬』を食べさせまくった。ハイになってる私に、凶悪ちゃんはスタンガンと電マ、そして、火の点いた煙草を押し当てた。痙攣したり、喘いだり、呻いたりする私を見て、凶悪ちゃんは大笑いしてた。それでやっと、元の優しい凶悪ちゃんに戻ったぐらい憂鬱だったんだ。可哀想にな」
凶悪ちゃんの苦しみを思うと、心が耐えられなくて、私は苺味の炭酸で胸の痛みを誤魔化した。
「限界まで思い悩んでいた凶悪ちゃんはな、体液塗れの私にシャワーを浴びさせた後、抱き締めてくれたんだ。ごめんね、痛かったよねってな。本当に申し訳なさそうに。優しいよな。暴れるぐらいまで心が壊れていたのに、ヘドロペットの私のことを想ってくれるなんてな。凶悪ちゃんは、どこまで他人想いな人なんだ……」
目を細めて顔を上げた拍子に、グレーアッシュと目が合った。彼の表情には、愛想笑いだとか、嘲笑だとか、そういった他者を見下したものが一切なかった。痛いぐらいまっすぐに、両目で私の両目を見ていた。同情じゃない。私の内側にいる私を、覗き込むような……。
「凶暴ちゃん様は、幸せですか?」
グレーアッシュの言葉に対して、私の口から出たのは二酸化炭素だけだった。開いた口から、どくんと鳴った心臓の音が待合室に響き渡りそうで怖かった。何を躊躇している。私は、凶悪ちゃんのペット。私は、しあわ……。
ふす。
私から見て、左端のカウンター席に2人の女殺し屋が座った。壁側には、御河童で丸顔の背の低い女。その右隣には、御河童でしゅっとした顔立ちの身長180センチぐらいある長身の女。
「……」
「……」
2人は無言で見つめ合っていた。
彼等は私と同様、殺し屋管理組織、胔に所属する殺し屋だ。コンビで行動し、2人合わせて、「殺し童子」と呼ばれている。背が低くて気弱なそうな顔をしている女が「童花」、背が高くてきりっとした二重の整った顔立ちをしている女が「童葉」という名前だ。
「……」
童花が潤んだ瞳で、童葉を見上げた。
「……」
童葉は右側の口角を釣り上げると、少女漫画に出てくるイケメン枠のキャラクターのように目を細め、童花の頭を撫でた。
「花を」
童花が言い、
「咲かす」
童葉が続いた。
すると、童花は左手に握った注射器の針を童葉の右前腕に、童葉は右手に握った注射器の針を童花の左前腕に同時に刺した。2人が親指で押し子を押すと、注射器の中に入っているピンク色の液体が、それぞれの体内へ入っていく。
「……」
「……」
童花と童葉は、数秒間、目を閉じたまま無言だった。突然、2人は目を開けると、とろんとした瞳で見つめ合った。
「す、好き、です……」
「ん、好き」
童花と童葉は両手で手を握り合い、ゆっくりとした動作でキスを始めた。徐々に激しくなっていき、舌を絡ませ始めた。待合室に唾液が絡まり合う下品な音が響く。
私は、その官能的な光景から目を離せないでいた。頭の中で、あの痛いぐらいまっすぐな瞳をしたグレーアッシュが、私に尋ねた。
「凶暴ちゃん様は、幸せですか?」
「私は……」
やっと声を絞り出し、前方を向いた。
グレーアッシュは、私の愛用のナイフ、喰の柄をこちらに向けて、微笑んでいた。
「こちらをどうぞ」
「……あ?」
状況が理解出来ずに、私はグレーアッシュを睨み付けた。
「殺戮婆様より、凶暴ちゃん様へ殺しの依頼の連絡が入りました」
……あぁ、そうだよな。
私は無言で喰を受け取った。鮮血ソーダを飲み干し、代金をカウンターに置く。あまりにも勢いよく飲んだから、炭酸で喉がじくじくと痛かった。
「行ってらっしゃいませ、凶暴ちゃん様」
表面だけを上品に仕立て上げたグレーアッシュの言葉を背中で受けながら、ドアに向かって歩き出す。
「……はは、ははは」
私は幸せだ。私は幸せ。私は幸せなんだ。私を飼ってくれる人がいて、私を生活費に使ってくれる人がいて、私を鬱憤の捌け口に使ってくれる人がいて、私を性欲解消の玩具に使ってくれる人がいて、私を……。
「好きでしゅ、んちゅ、好きでふ、んちゃ」
「ん、好き、んん、好き、んあ、好ひ」
童花と童葉の愛の貪り合いは、未だに続いている。
「ねぇ」
ドアノブに左手をかける。
「凶暴ちゃんは、私といられて幸せ?」
どこかの誰かが、耳元で囁いた。
「……うん」
ドアノブを回し、左腕に力を込める。
ドアを開けた先に伸びるのは、無機質な廊下だ。
【登場した湿気の街の住人】
・凶暴ちゃん
・グレーアッシュの悪魔
・童花
・童葉