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白鳩の麻薬王。

 全てを手に入れる過程が好きだった。
 誰かの物、誰かの土地、誰かの人生……。自分のものではない何かが、徐々に自分の色に染まっていく光景が、堪らなく好きだった。
「湿気の街」を手に入れたいと思ったのは、僕の色が濃く染まりそうだったから。
 噂で聞いた。都内に、年中湿度の高い街があるということを。その街の住人は常に憂鬱に侵されており、思考も出来ず、ただ俯き歩き続けている。
「次は、湿気の街に決定ですわね」
 僕の右耳の下で優雅に羽ばたく白鳩のピアスが、上品な声で言った。
「はい。そうしましょうね」
 白鳩のピアスに背中を押され、この街にやって来た。
 湿気の街を色で表すなら、灰色だった。
 空を覆う分厚い雲、纏わり付く湿気、どぶの臭いが漂う路地裏、側溝を流れる汚水、汚水に釣り糸を垂らすホームレス。
 生きる気力もなければ、死ぬ勇気もない。ただ息をしているだけのその街は、圧倒的な灰色に覆われていた。
 真っ白に染めたいと思った。負のオーラで淀んだ空気を、汚れ1つない新品のシーツのように。
 さて、どう支配しましょうかね。
 鼻歌を歌いながら、ゾンビのように俯き歩く人々の間を縫って歩いていく。
 湿気の街の住人は、「深海魚」と呼ばれているらしい。先の見えない暗闇をふらふらと泳ぎ続ける彼等には相応しい名前だと思った。
 気が付くと、廃墟が立ち並ぶエリアにいた。どこを見回しても、生命を感じない。灰色に、少し黒色を加えたような儚い色。
 ずちち、ずちち、ずちち……。
 両側に廃墟と化した居酒屋が立ち並ぶ路地裏を、重たそうな何かが入った黒色の袋を引き摺りながら猫背の少女が歩いていた。
「何をしているんですかね」
 この街は、他の街とは決定的に何かが違う。僕は興味本位で猫背の少女に尋ねた。
 彼女は立ち止まって振り返ると、今にも死にそうな目で答えた。
「仕事ー」
 ただの仕事ではないことは、明白だった。猫背の少女が持つ黒色の袋の中に入っているのは、他の街では見かけない物だと直感で分かった。
 僕はリュックサックの中から、10枚の1万円札が1束になった物を猫背の少女に手渡した。以前、東京都文京区にある湯島を支配した時に手に入れた金の一部だ。
「私は、『遺袋乙女』ー」
 すると、先程まで希死念慮を浮かべていた目をきらきらとさせて、遺袋乙女と名乗る少女は流暢に話し出した。瞳の奥で燻る闇は、消えていなかったけれど。
「死体掃除屋をやってるのー。この中に入ってるのは、ほら、回収した死体ー」
 遺袋乙女は、袋のチャックを開けた。
 中から少女の遺体が姿を見せた。白色の花柄が描かれた淡い水色のワンピースを着ていた。
「これから、この死体を処理しに行くのー」
「……この死体は、どこで回収したのですかね」
 僕は、袋の中で曇った空を見上げる命が消えた肉塊にうっとりとしながら尋ねた。
「んー?」
 遺袋乙女は不思議な顔をしたが、10万円を握りしめると口を開いた。
「『鈴蘭』ちゃんのところー」

*

 遺袋乙女が教えてくれた鈴蘭の居場所は、廃墟と化したラブホだった。
 僕は鈴蘭がいる廃ラブホのフロントのドアを開けると、重量を感じるぐらいに濃い埃の臭いが鼻腔を刺激した。
 照明、部屋パネル、受付、ソファー……。その空間にある全ての物に、埃が被っていた。
 電気の通っていないエレベーターの傍にある階段を使い、5階まで上がる。
 狭くて短い廊下は、フロント程埃はなかったが、廃墟らしく様々なところが黒ずんでいた。
「『白魔』っていう廃ラブホの501号室にいるー」
 遺袋乙女の言葉を思い出し、エレベーターの左脇にあるドアの前に立った。ドアに設置された錆びたプレートには、消えかけてはいるけれど、「501」と記されていた。
 円柱型のドアノブを掴んで回し、ドアを押す。
 ぎいぃぃいぃぃぃ……。
 心地よさと不愉快が共存する軋んだ音を鳴らしながら、ドアが開く。
 そこは、四畳程の部屋だった。こちらから見て、左側には硝子製の灰皿が置かれた丸机と2脚の椅子が設置されていた。右側にはベッドが置かれている。
 ベッドの上で、2人の女がキスをしていた。相手に愛を伝えるかのように、ゆっくりと舌を絡ませて。
 奥にいるのは白色のふわふわした髪が特徴的な女で、手前にいるのは右目に眼帯を付けた少女だった。
 二人の女はキスを止め、こちらを見た。
「あら?」
 白髪の女が首を傾けた。彼女の左耳の下で鈴蘭のピアスが、ふわりと揺れた。
「『鈴蘭乙女』は、女の子だけなの」
 何のことを言っているのかは分からなかったが、眼帯の少女の身体を見て、ここが目的地だと分かった。
「鈴蘭さん、あなたに興味があるんですね」
 僕は、白髪の女の目を見て言った。彼女が鈴蘭だと分かったのは、遺袋乙女に聞いた見た目と同じだったから。
「少しお話、出来ませんかね」
 今、僕の頭にあるのは、湿気の街を支配することではなかった。初めて見る種類の美への興味。ただ、それだけ。その気持ちをここまで強く感じたのは、初めてかもしれない。
 数秒間、鈴蘭は色素の薄い瞳で僕を見つめた後、眼帯の少女に顔を向けた。
「『眼帯』ちゃん、ごめんね。少し自室に戻ってもらっていいかな。我慢してくれた分、後でいっぱいキスしてあげる」
 眼帯と呼ばれた少女は鈴蘭を見ながら無言で頷くと、部屋から出ていった。
「ん……何を聞きたいのかな」
 鈴蘭は笑みを浮かべた。触ったら簡単に壊れてしまいそうな、脆く儚い笑みだった。


 鈴蘭と話していると心が落ち着いた。人を穏やかにさせるオーラを放っているようだった。
 鈴蘭の見た目も、彼女へ優しい態度を取ろうと思ってしまう要因の1つだと思う。
 思わず撫でたくなるような柔らかい白髪、綺麗な二重、色素の薄い瞳、美しい顔。肌は白く、身長は155センチ程あった。クリーム色のニットワンピースと、黒色のスニーカーがよく似合っている。左耳に付けた鈴蘭のピアスでさえ、心をほぐしてくれた。
 ただ、何を考えているのかは、一切分からなかった。表面では穏やかな顔をしているが、瞳の奥から光を感じない。仄暗い暗闇が、無言でこちらを覗いていた。
 僕は彼女に様々なことを尋ねた。遺袋乙女が運んでいた死体について、先程まで鈴蘭がキスをしていた眼帯の身体について、鈴蘭の生活について。
 鈴蘭は穏やかに、それでいて、真っ黒な瞳で、僕の興味に全て応えてくれた。
 鈴蘭は、廃ラブホ、白魔の住人らしい。ここで、鈴蘭の見た目をした麻薬、「鈴蘭の麻薬」を栽培・販売しているとのことだった。
「鈴蘭の麻薬の栽培方法が、あなたが知りたいことだと思うの」
 遺袋乙女が運んでいた死体と、鈴蘭とキスをしていた眼帯には、共通点があった。それは、身体中から鈴蘭が生えていること。これまで様々な街を支配してきたが、初めて見た。
 遺袋乙女が持っていた袋から出てきた鈴蘭塗れの死体を目にした時、あまりの美しさにうっとりとしてしまった。会いたいと思った。自分が支配出来ないぐらいに美しいものを生み出す、神以上の存在に。だから、白魔へ赴いた。そこにいたのは、紛うことなき女神だった。
「……栽培って、まさか人の身体を使ってですかね?」
 僕の問いに、鈴蘭は色っぽい笑みで答えた。
「正解。湿気の街に住む死にたい女の子達を集めて、『鈴蘭の種』を投与するの。鈴蘭の種はね、1日1回以上の他者との接吻と、鈴蘭乙女の身体を、栄養にして成長する。徐々に肌を突き破り、最終的には綺麗な花を咲かすの。1ヶ月後、鈴蘭乙女の命と引き換えに」
「それを採取するのですね」
「そう。魂を失った鈴蘭乙女は、信頼のおける死体掃除屋、遺袋乙女さんに埋葬してもらっているの」
 ふと、ある疑問が生まれた。
「僕が遺袋乙女さんに会った時、鈴蘭が咲いた遺体を運んでいましたね。お花を摘む前のご遺体を。何故ですかね」
 鈴蘭は、ふっと微笑んだ。彼女の瞳の闇がより一層深くなった。
「あまりにも、美しかったから」
 心臓を掴まれるような感覚になった。鈴蘭の虜になった瞬間だった。
 僕は、全てを手に入れる為に支配をする。そんな美しい物を自分の色に染めてでも手に入れる僕とは、真逆の人間。美しいものを、美しいまま手放す鈴蘭。その考えに、恋をした。
「申し遅れましたね。僕は、『白鳩の王』と言いますね」
「私は、『鈴蘭の麻薬姫』」
 より一層、彼女を知りたいと思った。

*

 鈴蘭の麻薬姫に会いにいった日以来、僕は廃ラブホ、白魔に住むことにした。4階の空き部屋、401号室を使用した。
 鈴蘭の麻薬姫の部屋、501号室には、毎日のように鈴蘭乙女がやって来た。僕も501号室に行っては、キスをする光景を眺めたり、鈴蘭の麻薬姫とたわいのない会話をしたり、と素敵な日々を過ごした。
 鈴蘭の麻薬姫に教えてもらったのだが、どうやら、鈴蘭の麻薬を摂取してトリップすると、会いたい人に会えるらしい。厳密に言うと、「過去に体験した幸せを、大切な人と共にもう一度味わえる」、もしくは、「理想的で幸福な時間を、大切な人と共に味わえる」とのこと。なるほど、過去の幸せと現実の不幸せの落差に憂鬱なっているこの街の住人に人気なわけだ。
「ねぇ、白鳩の王さん。あなたには、会いたい人がいるの?」
 鈴蘭の麻薬姫が光を宿さぬ瞳で尋ねてきたが、僕は首を横に振った。本当は訳ありな顔をしてから、「……どう、ですかね」と答えたいところだが、生憎そんな相手はいない。欲しい物は様々な方法で全て支配してきた。飽きるまで支配下に置くから、未練なんてない。
「鈴蘭の麻薬姫さん、あなたには会いたい人がいるんですかね」
 僕が問うと、鈴蘭の麻薬姫は501号室の窓から灰色の空に目をやった。
「……あまり、考えたことなかった」


 ある日、眼帯が死んだ。全身に鈴蘭を咲かせて。503号のベッドの上で、彼女は動かなくなっていた。
 鈴蘭の麻薬姫は少し考えてから、遺袋乙女に電話をした。
「遺体を回収して欲しいの」
 鈴蘭の麻薬姫は、眼帯から鈴蘭を採取しないことにしたらしい。
 眼帯の死体は、確かに美しかった。彼女の身体に咲く鈴蘭を含めて、彼女の死体だと感じた。花を摘んで鈴蘭の麻薬として販売するのは、勿体ない。そう心から思った。鈴蘭の麻薬姫に思考が近付いたような気がして、嬉しかった。
「到着ー」
 遺袋乙女は503号室に入ると、眼帯の死体を持ってきた袋に詰めた。
「じゃあねー」
 猫背の死体掃除屋は膨らんだ袋を引き摺りながら、部屋から出ていった。
「会いたい人、いたの」
 鈴蘭の麻薬姫は誰もいなくなったベッドを見下ろしながら、静かに呟いた。
「眼帯に会いたい……私の前から消えていった鈴蘭乙女達に会いたい……鈴蘭がよく似合った可愛い子達に……」
 鈴蘭の麻薬姫にそんなことを言わせてしまう、鈴蘭を咲かせたまま回収されていった鈴蘭乙女達が羨ましかった。
 美しいものは、手を加えない状態が1番美しい。永遠に自分のものにはならないから、いつか目の前から消えてしまうかもしれないという儚さも伴う。儚さは、美しさに刺激というスパイスを与えてくれる。
 美しいものを、美しいまま手放す。
 悪くない考えかもしれない。切なさ、寂しささえも尊いものになる。もう、いいか。支配なんて。鈴蘭の麻薬姫の元で、この美しさを味わっていたい。
 ごっ。
 突然鈍い音が聞こえた後、何かが倒れたような音が続いた。
 音のした方を見ると、ドアの前で鈴蘭の麻薬姫がうつ伏せで倒れていた。彼女の背中の上に、よれよれのスーツ姿の男が腰を下ろした。彼は表情を一切変えずに、鈴蘭の麻薬姫の後頭部を右手に握った両口ハンマーで殴り続ける。その間、男の両耳に付けられた撞木鮫のピアスがゆたゆたと湿った宙を泳いでいた。
「……あ……もしかして、取り込み中でしたか?」
 鈴蘭の麻薬姫の後頭部が半壊した地球から中身が溢れ出した後のような状態になった頃、撞木鮫のピアスの男は右手を下ろし、血が飛びった幸薄そうな顔をこちらに向けた。
「……どうして、ですかね」
 僕の口から出たのは、抽象的な問いだった。
「殺しの依頼があったんで」
 人を殺したばかりなのに一切動きのない一重の細い目をこちらに向けながら、撞木鮫のピアスの男は僕の質問に的確に答えた。無表情な顔と乱れた中分け前髪の不釣り合いさに、思わず笑ってしまいそうになった。
「殺し屋さんですかね」
「はい。『空腹鮫』です。仕事の依頼があれば、是非、殺し屋管理組織、『胔』まで」
 空腹鮫と名乗った撞木鮫のピアスの男は、何事もなかったかのように立ち上がった。
「あ……あと、これから死体掃除屋も来ると思うんで、宜しくお願いします」
 何をお願いされているのかは分からないが、鈴蘭の麻薬姫の死体が汚いまま僕から離れていってしまうことだけは理解した。
「鈴蘭の麻薬姫を殺そうと依頼したのは、誰ですかね」
 別に犯人に復讐をしようと思って聞いたわけではない。ただ、せめて、ずっと一緒にいたいと思っていた鈴蘭の麻薬姫について、別れるまでに何でもいいから知っておきたかった。誰にどう恨まれていたのか、憎まれていたのか、愛されていたのか。
「強いて言うなら……」
 首を少し傾けながら、空腹鮫は答えた。
「湿気の街?」
 きっと、依頼主の情報をはぐらかす為に言った、彼なりの冗談だったのかもしれない。それでも、頭が半壊した鈴蘭の麻薬姫の死体を呆然と見下ろすことしか出来ない僕には、空腹鮫の男の言葉が真正面から深く深く刺さった。
 美しいものを、美しいまま手放す。
 僕とは真逆の考えを持つ鈴蘭の麻薬姫に、小さな恋をした。いつか消えてしまうかもしれないという儚さすらも尊いと。
 だが、それは、手放す最後の瞬間まで美しかった場合だ。醜さに侵されないようにする為には、やはり、ある程度の管理は必要なのだ。
 何かを手に入れたいと思うのなら、支配しなければならない。
「お帰りなさい」
 僕の右耳の下で、白鳩のピアスが嬉しそうに囁いた。
「湿気の街を支配する方法、見付かりまして?」
 僕は血塗れになった鈴蘭の麻薬姫の死体に近付くと、彼女の左耳から鈴蘭のピアスを取った。
「鈴蘭の麻薬は、会いたかった人に会える麻薬なの」
 ふと、鈴蘭の麻薬姫が言っていたことを思い出した。
「過去に囚われて憂鬱になっているこの街の住人に、ぴったりな麻薬でしょ?」

*

 拍手が響き渡る。
 天井、壁、床、全てが真っ白に染まった、小劇場程の広さの部屋。30人ぐらいの白色の装束を着た美男美女が、僕達の為にドアまでの道を作り、拍手をしている。
 僕とその後ろを歩く白色のペストマスクを被った男は、彼等の喜びの声を聞きながら、圧倒的な白色に支配された道を進む。
 ここは、僕が作った教団、「白鳩の聖域」のアジト。湿気の街の住宅区域にある、一軒家の地下に施設を作った。「憂鬱に押し潰された街の住人を幸せにする」という壮大な目標を掲げて、白鳩の聖域を立ち上げた。当然、それは表向きの目標だ。湿気の街を支配するという、僕のゲームの為の道具に過ぎない。
 鈴蘭の麻薬の効果は絶大だった。鈴蘭の麻薬姫亡き後の白魔にあった鈴蘭の麻薬を掻っ攫い、街の住人に配った。すると、摂取した彼等は、すぐさま中毒者になった。その中でも顔のいい人間を集め、「白鳩」という名前の信者にした。今度は白鳩達に鈴蘭の麻薬を配布する仕事を与えると、新たな白鳩が更に増えた。鈴蘭の栽培、販売、配布、鈴蘭乙女候補の確保、鈴蘭乙女候補のロリコンへの受け渡し、死体となった鈴蘭乙女の回収、鈴蘭の麻薬の製造、金銭のやり繰りと、鈴蘭の麻薬を無料提供する代わりに、白鳩達に様々な役割を与えた。湿気の街は鈴蘭の麻薬ジャンキーで溢れ返り、それぞれの仕事を全うしようとする白鳩達が街中を闊歩した。仕上げに、湿気の街の「救世主」と呼ばれるペストマスクを被った男も純白の花の奴隷にした。白鳩の聖域のシンボル、「ペストマスクの白鳩」として、白色のペンキを塗りたくったペストマスクを被せた。ペストマスクの白鳩は、今現在、白鳩達によって作られた白い道を教祖である僕と共に歩いている。
 ペストマスクの白鳩を連れて、白鳩が開けたドアを通った。
 ぱたり。
 背後からドアの閉まる音が聞こえる。
 3メートルほど先に、アジトの1階へと繋がる階段がある。僕達は地上へ出る為、その階段を登り始めた。
 湿気の街を支配した。
 そう言っても過言ではない状況なのに、何故か満たされなかった。何だ? 何が足りない? 誰がどう見ても、この街は僕の物だろう? そう何度も自分に問いかけても、現状に満足出来ないことの答えは見付からなかった。
 背後からドアの開く音が聞こえた。直後、足音が近付いてくるのが分かった。
 鈴蘭の麻薬姫が殺された日、俺は白鳩の王という名前を捨てた。
「湿気の街を支配する方法、見付かりまして?」
 鈴蘭の麻薬姫が付けていた鈴蘭のピアスを拾い上げて、白鳩のピアスの質問に答えたんだ。
「僕の名前は、今から」
「『白鳩の麻薬王』様!」
 下から誰かが僕を呼んだ。
 足を止めて、振り向いた。右耳に付けた白鳩のピアスと左耳に付けた鈴蘭のピアスが、ゆらりと揺れる。ペストマスクの白鳩も僕に倣って声の主を見下ろしていた。
 最近入信したグレーアッシュ色にさらさらの髪を染めた白鳩が、僕を見上げていた。
 グレーアッシュ色の髪の男、通称、「グレーアッシュの白鳩」の息の上がり具合から見て、ただごとではないと感じた。
「どうしましたかね。グレーアッシュの白鳩さん」
「俺達の」
 僕の声に被せるようにして、グレーアッシュの白鳩は口を開いた。
「俺達の負けです」
 彼の言葉を聞いた瞬間、僕の心の周りで蠢いていた言いようのない違和感が一瞬にして消えた。桜道を歩く僕の頬を春風が撫でて、未来への不安や憂鬱を払拭するような爽やかさがあった。
「もう、止めにしてくれませんか?」
 グレーアッシュの白鳩と、鈴蘭の麻薬姫を殺した空腹鮫の顔が重なったように見えた。決して、彼等が似ていたわけではない。どうやら僕は、2人を、白鳩達を、鈴蘭の麻薬ジャンキー達を、全て、ある1つのものとして捉えているようだった。
「強いて言うなら……湿気の街?」
 僕が鈴蘭の麻薬姫を殺す依頼を出した人間が誰であるかを空腹鮫に尋ねた時、彼がふざけて言った言葉。ただの会話の中にあっただけの何でもない言葉。そんなたわいもない言葉が、この街を支配する主な動機になっていた。
「あなた達、湿気の街は……僕に負けた。その認識で間違いないですかね」
 今まで気が付かなかったが、柄にもなく、僕は恨みという感情を抱いているようだった。「鈴蘭の麻薬姫の命を奪った湿気の街に復讐をしたい」と、思っているようだった。「許してください。私の負けです」と、湿気の街の無様な泣き顔を見たいようだった。
「間違いないです」
 グレーアッシュの白鳩の必死な顔を見て、自分の本当の気持ちに気が付くこと出来た。
「どうか、助けてくれませんか」
 今まで散々、人を、街を支配してきた分際で、たった1人の想いを寄せた人を奪われたから恨みを抱くのは、あまりにも自分勝手過ぎる。そんなことは言われなくても分かっている。だが、感情は理屈ではなかった。
 湿気の街が、僕に負けを認めた。その事実に、心が満たされた。支配が完了したと自分で判断して満足してきた僕にとって、他者からの敗北宣言で満たされた感情になるのは初めてだった。
 終わりの時だ。この街を出る時が来た。
「ねぇ、白鳩の王さん」
 穏やかな声が、左耳から聞こえた。
 手に入れたものより、手に入らなかったものの方が恋しいなんて、なんと皮肉なものだ。
 美しいものを、美しいまま手放す。鈴蘭の麻薬姫は醜い姿で死んだ。だが、見た目の話ではない。白魔で過ごした日々は、もう2度と体験することは出来ない。似たものを揃えて、代用品で補うことも僕には出来るが、これ以上、この美しく儚い記憶を霞ませたくない。このまま、白魔での日々を思い出として終わりにしたい。
 会いたいのは、あの時にいたあの人だ。戻りたいのは、あの人と過ごしたあの時だ。欲望のままに見る、同情を纏った幻覚じゃない。
 美しいものを、美しいまま手放す。
「あなたには、会いたい人がいるの?」
 今なら、あの日の願いが叶うと思った。


【登場した湿気の街の住人】

・白鳩の麻薬王
・遺袋乙女
・鈴蘭の麻薬姫
・眼帯
・空腹鮫
・ペストマスクの白鳩
・グレーアッシュの白鳩

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