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特別編:牛蛙の魔窟。

 ぬちゃ、ぬちゅ、ぬちょ……。
 灰色が支配する空間に、泥濘んだ地面を踏む不快な音が響く。
 深夜1時。
 辺りを見回しても、明かりなんてない。スマホから放たれるライトで、足元を照らして歩く。
 ここは、「湿気の街」の廃墟区域。エリア名の通り、辺りには廃墟しかない。元一軒家、元肉屋、元ゲームセンター、元ラブホ……。このエリアからは、生気を感じない。土地自体から魂が抜けたような、死体というより骨のような、虚無に近いものだと思った。
 元住宅街を抜けて、元アーケード商店街を歩く。肉屋、魚屋、駄菓子屋、不動産屋……。かつてはちゃんと街が生きていたんだな、と実感出来るぐらいには建物の原型が留まっている。だがやはり、人がいないと生命を感じない。
 真っ暗な元アーケード商店街を歩いてると、誰もいない筈の店内から、誰かに覗かれているような気がしてきた。何だか怖くなって、常時持ち歩いている羊駱駝のお面を被った。もし仮に廃墟区域の住人に見られていたんだとしたら、今更顔を隠しても意味なんてないだろうけど。
 死んだ商店街を早足で歩いていたら、出口に辿り着いた。
 出てすぐ右側に、出入り口の両側を1本ずつの電柱に挟まれた小路がある。左右の電柱の上部に、橋をかけるようにして長方形の看板が1つ設置されている。元々何かの文字が書いてあったであろう、黄ばんだ白色の看板。そこに「牛蛙の魔窟」と黒色の文字で乱雑に横書きされている。
 着いた。本日の目的地。廃墟区域にある売春窟、牛蛙の魔窟。この路地は都市伝説のように扱われているが、実際に存在する。今日は、アングラ街ライターとして、この売春スポットを取材しに来た。
 辺りは暗いのに、牛蛙の魔窟からだけは、点滅する紫色や濃紺色等の妖しい光が弱々しく漏れている。
 牛蛙の魔窟と記された看板の下を潜り、廃墟区域にある売春窟へと入った。

*

 そこは、両側に2階建ての古びた木造の建築物が並んでいる小路だった。
 事前調査の通り、入ってすぐにある4軒は大人の玩具屋だった。こちらから見て右側の2軒は手前から、「戯」、「遊」、左側の2軒は手前から、「翫」、「弄」という店名だ。それぞれの店の前に電飾看板が置いてある。戯と弄の電飾看板は紫色、遊と翫は濃紺色の光を放っていた。
 建物の作りは全て同じだった。木造の引き戸が閉め切られている為、中を確認することは出来ない。ただ、それぞれの店の中から、女の喘ぎ声のような、悲鳴のような、苦しそうな声が漏れ聞こえていた。
 動画でも流しているのかなと初めは思っていたが、その声が妙に生々しくて壁の向こうで誰かが声を出しているような気がしてきた。もしかして、大人の玩具を誰かが実際に使っているのか? この通りを見たところ、牛蛙の魔窟の客は僕しかいない。暇な店主が自慰行為をしている可能性もある。
 からからから。
 左側から引き戸が開く音が聞こえた。
 ちらり、と音のした方に目をやる。
 左側の2軒目、弄の戸が少しだけ開いていた。店内からは、ぎらぎらと輝く紫色の光が漏れている。建物と引き戸の隙間から、紫色のコートを着て、フードを深く被った老婆がこちらを覗いていた。彼女は左手に持ったペットボトルの中にある濃いカルピスを飲んで、僕を見ながら、にやにやと微笑んだ。その時に見えた老婆の歯は紫色で、鮫のようにぎざぎざだった。
「はぁ、はぁ、はぁ……ふひょ、ふひょ、ふひょ……はぁ、はぁ、はぁ……」
 老婆は、荒い息で気持ちの悪い笑い声を出した。
 気味が悪かったので、視線を逸らし、僕は先へと進んだ。

*

 次に見えてきたのは、4軒の宿だった。これ等の宿泊施設も大人の玩具屋の建物と同様、2階建ての古びた建物だ。こちらから見て右側の2軒は手前から、「泊」、「旅」、左側の2軒は手前から、「館」、「寓」という店名だった。こちらも、それぞれの店の前に電飾看板が置いてある。泊の電飾看板は紫色、旅は濃紺色、館は暗赤色、寓は藍色の光を放っていた。
 全ての宿の前に、2人ずつ小汚いコートを着た女達がフードを深く被って立っている。泊の前には紫色、旅は濃紺色、館は暗赤色、寓は藍色のコートの女達が立っている。彼女達は全員、立ちんぼだ。魔窟にいる街娼(立ちんぼ)という意味から、「魔街娼」と呼ばれている。
「……おち……うし……」
 8人の魔街娼達が、呪文を唱えるように何やらぼそぼそと呟いていた。
「……こう……うし……」
 僕は立ち止まって、耳を澄ませた。
「……堕ちた蝙蝠は牛蛙……堕ちた蝙蝠は牛蛙……堕ちた蝙蝠は牛蛙……」
 どういう意味なのか、さっぱり分からない。
「……堕ちた蝙蝠は牛蛙……堕ちた蝙蝠は牛蛙……堕ちた蝙蝠は牛蛙……」
 魔街娼達は暗く囁くような声で何度も同じ言葉を反芻しながら、両手を動かしていた。彼女達は錆びた金属バットを両手で逆手に握っているか、錆びたメリケンサックを両手に嵌めていた。金属バットを持っている者は金属バットの先端を地面に一定の間隔でゆっくりと振り下ろし、メリケンサックを嵌めている者は両手のメリケンサックの表面をゆっくりと擦り合わせていた。
 ぼちゃ、ぼちゃ、ぼちゃ、ぼちゃ、ぼちゃ……。
 さり、さり、さり、さり、さり……。
「……堕ちた蝙蝠は牛蛙……堕ちた蝙蝠は牛蛙……堕ちた蝙蝠は牛蛙……」
 魔娼婦達が奏でる音楽は、牛蛙の魔窟をより魔窟らしく演出していた。
 魔街娼達は、元々魔女だったという噂がある。
 魔女、といっても実際に魔法が使えるわけではない。この街で魔女と自称する女によるカルト集団、「湿気の魔女」のことだ。母体となっている「湿気の魔女協会」という組織に、魔女であると認められた者が所属出来る。しかし、湿気の魔女協会然り、湿気の魔女然り、何を目的とした集団なのかは明らかになっていない。「深夜に湿気の魔女が集会を開いていた」という目撃情報があったり、「製造した生物を湿気の魔女が街に解き放っている」という噂はあるが、どの情報からしてもいまいち何をしたい組織なのかは分からない。もしかしたら、「自分は魔女だ」という映画の中みたいな状況を楽しんでいるだけなのかもしれない。
 ごっこ遊びに興じていた魔女が何故、魔街娼になるのか。
「嫌……嫌だ……」
 暗赤色のコートを着た1人の魔街娼が、首を横に振り始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……遅れてごめんなさい……」
 湿気の魔女には、湿気の魔女協会が定めた掟がある。それを破った者は「非魔女」と認定される。非魔女は「非魔女狩り」の対象となり、湿気の魔女による死刑が執行される。
 謝り出した暗赤色コートの女に感化されて、他の魔街娼達も髪の毛を掻き毟ったり、頭を抱えて蹲ったり、取り乱し始めた。
 魔街娼の正体は、非魔女ではないか。そんな噂が囁かれているのだ。集会に遅刻したり、湿気の魔女が定期的に飲まなければならない濃いカルピスを飲まなかったり、湿気の魔女協会が定めたルールを破った者達。非魔女狩りから逃げ切った非魔女ではないか、と。
「許して……」
「止めてください! 止めてください!」
「もう致しませんからぁっ!」
 牛蛙の魔窟は、非魔女が最終的に行き着く場所と言われている。どうやって彼女達がこの場所の存在を知り得るのかは不明だが、非魔女は必ずここへ向かう。死から逃れて、生き延びる為に、身体を売る。この噂が本当だった場合、ここは死と性が混在する、他とは一味違う売春窟ということになる。
 だが、非魔女全員が、魔街娼になるわけではない。

*

 両側を宿に挟まれた場所を進む。
 最後に見えてきたのは、4軒のちょんの間。こちらも宿泊施設と大人の玩具屋の建物と同じ。2階建ての古びた建物だ。こちらから見て右側の2軒は手前から、「翠」、「貂」、左側の2軒は手前から、「洟」、「禝」という店名だった。それぞれの店の前には、電飾看板が置いてある。翠と貂の電飾看板は紫色、洟と禝は濃紺色の光を放っていた。
 死刑から逃れた非魔女がなると言われている、魔街娼以外のもう1つの存在。それが、「魔嬢」だ。牛蛙の魔窟のちょんの間で働く、風俗嬢。逃げてくる非魔女は、年齢や見た目は様々。その中でも若かったり、美しかったり、色気があったり、と需要のある商品は魔嬢になる。売れなさそうな娘は、魔街娼となる。歳を取り、需要がなくなった魔嬢は、解雇されて魔街娼になる。最後は全員、同じ未来が待っているというわけだ。
「お前さん、待ちたまえ。待て。待つのじゃ」
 突然、右側から話しかけられ、声のした方を向いた。
 そこには、蝙蝠のお面を被り、紫のコートを着た老婆がいた。お面とフードを被っている為、顔と髪は見えないが、彼女の手が皺々だった為、年寄りであることは分かった。
 先程まで、翠の店の前に置かれたパイプ椅子に座っていた者だ。
「うちにはよき牛蛙がおる。仰山おる。仰山おるのじゃ」
 多分、彼女は翠のポン引きだろう。
「ここにもよき牛蛙がおる。1匹おる。1匹おるのじゃ」
 ポン引きの足元に、四つん這いになっている女がいた。彼女は小汚い紫色のコートを着ており、フードを目元まで深く被っていた。両手には錆びたメリケンサックを嵌めている。また、首元にコートの上から鎖で作られた首輪を嵌められており、リードはポン引きが右手で握っていた。
「……彼女は、翠の魔嬢?」
 僕は四つん這いの女を一瞥して、ポン引きに尋ねた。
「こいつはあちしのペット……愚かな蛙で、『愚蛙』。だが、おまいが望むなら、魔嬢としても売れる。魔嬢としても売れるのじゃ。……な?」
 ポン引きがリードを引っ張ると、愚蛙は「げごっ」という呻き声を上げてから、僕を見上げた。
「舐めさせて。舐めさせて。温めさせて、舐めさせて。全身の先端が私の好物なのです」
 愚蛙は通常より長めの舌を口から出すと、先端をちろちろと動かした。そして、僕のズボンを掴み、局部に顔を近付けた。
「ここに愚かな牛蛙がおる!」
 ポン引きはコートの左ポケットに左手を突っ込むと、何かを押すような動作を見せた。
「ゔゔゔゔゔゔゔゔっ!」
 突然、愚蛙は喘ぎ声に近い呻き声を上げると、仰け反った。泥濘んだ地面の上で転げ回る彼女の下半身から、むぶむぶむぶと妙な振動音が聞こえる。
「むぐふふふふふ……むぐふふふふふ……」
 のたうち回る愚蛙を見下ろしながら、ポン引きが気味の悪い笑い声を出した。
「愚か。愚か。愚か、愚か愚か愚か愚か愚か」
 ポン引きは、コートのポケットに入れたままの左手で再び何かを押すような動作をした。すると、彼女の胸元と腹部、臀部からも、むぶむぶむぶと振動音が聞こえた。
「愚か愚かじゃあぁっ! 愚か愚かじゃあぁっ! 愚か愚かじゃあぁっ!」
 ポン引きは同じ言葉を繰り返しながら、愚蛙の近くでめちゃくちゃなリズムでステップを踏み始めた。
「ここにはよき牛蛙がおるぅっ! 遊んでいくかぁっ!? 遊んでいくのじゃあぁっ!」
 これまでの人生に不満がなさ過ぎて、これからの人生に不安がなさ過ぎて、嬉しいと言うより、狂ってしまったみたいに大笑いするポン引き。彼女を眺めながら、牛蛙の魔窟に関する噂の続きを思い出した。
 非魔女狩りから逃れた非魔女の最後の砦と言われている、牛蛙の魔窟。ここにある大人の玩具屋、宿、ちょんの間の店主は全員、現役の湿気の魔女であるということ。母体組織である湿気の魔女協会が、非魔女を使って金を稼ぐ為、廃墟区域にこの売春窟を設置したのでは? という話だ。
 この噂、僕は否定をし切ることが出来ない。何故なら、たかが一介の物書きである僕が、非魔女が集まるとされている売春窟の存在を知っているからだ。湿気の街で名を馳せている湿気の魔女協会が、この噂を知らないわけがない。徹底的に非魔女を追い詰めるのが面倒臭い等の理由がない限り、非魔女を放置する可能性は低いと思われる。
 つまり、この話が正しい場合、非魔女は湿気の魔女協会が用意した場所へ意図的に逃がされたことになる。湿気の魔女に所属したからには、生きる理由を、死ぬ理由を、大袈裟ではなく人生そのものを、湿気の魔女協会に決められてしまうということだ。
 ただの魔女ごっこではなく、命を懸けた魔女生活だ。

*

 ポン引きと愚蛙の奇声を背に、来た道を戻り始めた。
 ちょんの間の前を通り過ぎ、宿の前を通り過ぎ、大人の玩具屋の前を通り過ぎようとした。
「はぁ、はぁ、はぁ……ふひょ、ふひょ、ふひょ……はぁ、はぁ、はぁ……」
 右側から、気色の悪い笑い声が聞こえた。
 そちらに目をやると、大人の玩具屋、弄の引き戸が開いたままだった。ここに来た時と同様、紫色のコートの老婆がこちらを覗いている。飲みかけの濃いカルピスの入ったペットボトルを左手に、紫色の鮫歯を見せて、にやにやと不気味に微笑んでいた。
 開いている引き戸と建物の隙間からは、紫色の妖しい光が漏れている。老婆の後ろにある光景が、少し見えた。
 ぎらぎらと輝く、紫色の照明に照らされた店内。棚にいくつもの大人の玩具が陳列している。店の真ん中には空間があり、手術台のような椅子が置かれていた。そこに裸の女が座らされており、手首足首を鎖のような物で縛られていた。手術台の傍には器具台があった。その上に、よく知る物から、見たことない禍々しい物まで、様々な大人の玩具が置かれていた。
 拘束された女の、意識が朦朧としていそうな瞳と目が合った気がして、急いで目を逸らした。
 彼女からは生気を感じなかった。身体から魂が抜けたような、死体というより骨のような、虚無に近いものだと思った。

*

 足は、自然と牛蛙の魔窟の出口へ急いでいた。
「魔街娼と魔嬢は、非魔女狩りから逃れた非魔女である」、「牛蛙の魔窟にある店の店主は、現役の湿気の魔女である」、「牛蛙の魔窟は、湿気の魔女協会によって設置された売春窟である」。
 噂の真相? そんなもの、どうでもいい。そんなことを言ったら、アングラ街ライター失格だ? うるさい。何とでも言えばいい。
 そんなことより、生きることに希望を見出して死を免れた者達の棲家から、夜空を遊び回る為の羽を失って檻だと気付かず逃げてきた蝙蝠達の魔窟から、すぐさま離れたかった。ただ、それだけだった。
 いくら急いだって無駄だと気付くのには、そこまで時間はかからなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……ふひょ、ふひょ、ふひょ……はぁ、はぁ、はぁ……」
 牛蛙の魔窟と記された看板を潜っても、元アーケード商店街を抜けても、あの吐息が、あの笑い声が、鼓膜に纏わり付いて離れない。
 この記事を書いている、今も。


【登場した湿気の街の住人】

・湿度文学。
・大人の玩具屋、「弄」の店主
・魔街娼
・ちょんの間、「翠」のポン引き
・ちょんの間、「翠」の魔嬢、「愚蛙」
・大人の玩具屋、「弄」のペット

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