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[書評] 失敗の本質 日本軍の組織論的研究   なぜ日本人は空気に左右されるのか?


失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

本書は1984年5月 ダイヤモンド社刊とあります。
 
ビジネス本特集では必ずあげられる一冊です。
 
「いまさら」ながらに読み終えておいていうのもなんですが、日本国民は皆、一度は読んでおくべき一冊だと考えます。
 
どういったリーダーシップをとるべきか、組織の運営はどうあるべきかもさることながら、「官僚制組織」特に日本政府がどのようなものであるかを理解する上で非常に勉強になる一冊です。
 
本書のテーマは「大東亜戦争史上の失敗に示された日本軍の組織特性を探究する」ことです。なぜ敗けたのかという本来の意味にこだわり、開戦したあとの日本の「戦い方」「敗け方」を研究対象としています。
大東亜戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、これを現代の組織にとっての教訓、あるいは反面教師として活用することが、本書の大きなねらいとあります。
 
『軍隊とは近代的組織、すなわち合理的・階層的官僚制組織の最も代表的なもの』だそうです。
 
今回のコロナウイルスに対する安倍首相の言動が、本書を読むことでより理解できるようになりました。現在の「安倍政権」および「新型コロナウイルス対策」は「日本軍以降の官僚制組織」および「不測の事態における対応困難」にそのままあてはめることができます。
 
本書にも、"日本軍の特性は、連続的に今日の組織に生きている面と非連続的に革新している面との両面があると考えている"
"日本の政治組織についていえば、日本軍の戦略性の欠如はそのまま継承されているようである"
"行政官庁についていえば、タテ割りの独立した省庁が割拠し日本軍同様統合機能を欠いている。このような日本の政治・行政組織の研究は、われわれの今後の課題である"
との記載があります。
 
 本書が書かれてすでに35年以上が経過しているにも関わらず、本書の指摘は今日でもそのままあてはまると考えます。
 
本書で例示されている、大東亜戦争にみられた日本軍の傾向を列挙してみます。
 
・作戦目的の曖昧さと指示の不徹底
 
・中央と現地とのコミュニケーションが有効に機能しなかった(上司と部下の間で、価値・情報・作戦構想が十分に共有されておらず、特別な配慮や努力も払われた形跡がなかった。
情報に関しても、その受容や解釈に独善性が見られ、戦闘では過度に精神主義が誇張された。
 
・不測の事態は想定されることがなく、想定することはむしろ「作戦の成功」を信用できない消極的な態度として非難されることすらあった。
 
・人間関係を過度に重視する情緒主義や、強烈な使命感を抱く個人の突出を許容するシステムが存在。
 
・中央と現地の意思疎通が円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極先を主張する官僚が向こう意気荒く慎重派を押し切り、上司もこれを許した
 
・戦略的グランド・デザインの欠如
 目的なき戦略は存在しません。目的を達成するためには、どういう戦略を用いてどのような戦闘を開始し、目的達成はどの状況をもって達成されるのかをあらかじめ明確にしておくことが重要です。この、いわば戦略の「全体像」がしっかりといだかれない傾向があったようです。
 
・作戦司令部には兵站無視、情報力軽視、科学的思考方法軽視の風潮があった。
兵站(へいたん):戦時に、前線の戦闘部隊に対して、人員や食料、武器の補給などを行ったり、本国や司令本部との情報のやりとりを確保する活動を意味する
 
・大本営のエリートも、現場に出る努力をしなかった
 
・「体面」や「人情」、「保身」が軍事的合理性を凌駕していた。
 
トップと、末端の情報伝達が全くのあべこべだったことがわかります。しかも信頼関係がないため、末端はそのうち上層部にしっかり報告しなくなり、自分達の決定を押し通すようになります。トップも現場のことがわからず、現場で働く人たちの気持ちを大きく傷つけたくないため、あいまいな表現でトップの意図を伝え、現場は理解してくれているだろうと都合のいい解釈を行うようになります。
まさに、踊る大捜査線にみられる「事件は会議室でおきているんじゃない。現場で起きているんだ!」(1998年。もう20年もたつのか…)状態です。
 
意思決定は必ずしも論理的なものばかりではありません。そこには日本特有の環境も影響しているようです。
"日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。"
 
"空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後には空気によって決定される。もっとも、科学的な数字や情報、合理的な論理に基づく議論がまったくなされないというわけではない。そうではなくて、そうした議論を進めるなかである種の空気が発生するのである"
 
KYという言葉がはやったことがありました(2007年)。安倍政権では「忖度(そんたく)」という言葉もでてきました(2017年)。誰かがいったことではなく、その場の雰囲気でなんとなく。こうなると理屈でもないですし、それが大きな問題を起こした場合に、後になって責任の所在も曖昧になってしまいます。
 
そもそも「お前KYだよ」ってのも危険です。空気とはつまり、「なんとなくの雰囲気」です。複数の人間が集まって、活発に議論をした上でもmajority ruleにより、少数派の人達の考えが抑圧されることがあります。空気ともなると、多分そうだろうけど、本当にみんながそう思っているかなんて誰にもわかりません。「お前KYだよ」って言ってる人がKYかもしれなければ、そもそもその「空気」が「正しい」・「優先されるべき」かもわかりません。当時は「KY」を発する人達を見て「ちょっと距離を置いておこう」と思ったのを思い出しました。
 
作戦、戦略、責任の所在、評価が曖昧だと、過去の経験を活かすこともできません。
 
"失敗した戦法、戦略を分析し、その改善策を探究し、それを組織の他の部分へも伝播していくということは驚くほど実行されなかった。これは物事を科学的、客観的に見るという基本姿勢が決定的に欠けていたことを意味する"
 
"また、組織学習にとって不可欠な情報の共有システムも欠如していた。日本軍のなかでは自由闊達な議論が許容されることがなかったため、情報が個人や少数の人的ネットワーク内部にとどまり、組織全体で知識や経験が伝達され、共有されることが少なかった。作戦をたてるエリート参謀は、現場から物理的にも、また心理的にも遠く離れており、現場の状況をよく知る者の意見が取り入れられなかった。"
 
"ミッドウェー海戦の結果は、日本軍にとって図上演習で予想された以上の決定的敗北であったが、作戦終了後に通常行われる作戦戦訓研究会もこの際には開かれなかった。作戦担当の黒島先任参謀は、戦後、次のように語ったといわれる。
 本来ならば、関係者を集めて研究会をやるべきだったが、これを行わなかったのは、突っつけば穴だらけであるし、みな十分反省していることでもあり、その非を十分認めているので、いまさら突っついて屍に鞭打つ必要がないと考えたからだった、と記憶する"
 
"ここには対人関係、人的ネットワーク関係に対する配慮が優先し、失敗の経験から積極的に学びとろうとする姿勢の欠如が見られる"
 
医療現場でも使われる「ヒヤリ・ハット」という言葉があります。医療過誤など大きな問題にならずとも、カルテの記載間違いや、薬や食事の配膳ミスなど、些細なミスはけっこう起こりうるものです。
人間はどんなに注意していても、ミスを0にするのは難しい。誰もがミスをしうるという観点から、些細な問題でも、現場で共有し、それが起こらないように反省・対策をたてる行為です。
ここで大切なのは犯人捜しではなく、「同じようなことは他の人間も起こし得る」「同じようなことが今後起こらないようにするためにはどうするのがいいか」という視点です。
 
テレビの報道でも政治家の不祥事に対してコメントを求められた別の政治家が「もう十分反省しているでしょうから、これぐらいで」といった発言をされるときがあります。
 
「問題を起こした人間をコテンパンにたたきのめす」ことではなく「同じような不祥事を防ぐ・他人にも起こさせない」ためにはどのようにするのがいいかを検討するのです。
 
ここをはき違えると、建設的な検証の場で、「土下座をしろ、この恥知らず」といったようなパワハラ的発言をしてしまう人がでてきてしまいます。
 
 また、政治的な不祥事が起きた時に、十分な説明責任がはたされることもなく、罰則も曖昧なまま気づけばまたテレビでみかける政治家も少なくありません。これも昔から変わらないようです。
 
 蓮舫議員、山尾議員もテレビに堂々とでています。河合夫妻もどこまで椎弓されるのでしょうか。
 
"ノモンハンの事例に見られるように戦闘失敗の責任は、しばしば転勤という手段で解消された
しかもこれら転勤者はその後、いつの間にか中央部の要職についていた。なかには大本営作戦課の重要ポストを占めたものもいた。申し訳の左遷だったのである。これが陸軍人事行政の一側面と言えよう。信賞必罰は陸軍部内では公正ではなかった。積極論者が過失を犯した場合、人事当局は大目にみた。処罰してもその多くは申し訳的であった。一方、自重論者は卑怯者扱いにされ勝ちで、その上もしも過失を犯せば、手厳しく責任を追及される場合が少なくなかった"
 
日本軍と当時の教育システムの関係も、今日の日本政府と教育の関係につながる部分があります。
 "教育内容については、海軍兵学校では理数系科目が重視され、また成績によって序列が決まったので、大東亜戦争中の提督のほとんどは、理数系能力を評価されて昇進した。陸軍士官学校では、理数よりも戦術を中心とした軍務重視型の教育が行われた。理解力や記憶力がよく、それに行動力のある者は成績がよかった。しかし陸軍の場合には、海軍と異なり陸士の成績よりは陸大の成績がその後の昇進を規定した。陸大卒業者は、記憶力、データ処理、文書作成能力にすぐれ、事務官僚としてもすぐれており、たとえば東条大将はメモ魔といわれたほどだが、またその記憶力のよさも人を驚かせていたといわれる。"
 
"軍事組織は、平時から戦時への転換を瞬時に行えるシステムを有していなければならない。日本軍には、高級指揮官の抜擢人事はなかった。将官人事は、平時の進級順序を基準にして行われた。年功序列を基準とした昇進システムのなかで、最も無難で納得性のある基準が、陸士・海兵の卒業成績と陸軍・海軍大学校の卒業者の成績順位であった。
 日本海軍はきわめて洗練された人事評価システムをつくり上げたが、学歴主義を否定することはできなかった。既述のように、海軍兵学校の卒業席次は、兵学はすべて理数系の実学であったから、理数科に強い学校秀才型の学生が有利であった。しかしながら、予測のつかない不測事態が発生した場合に、とっさの臨機応変の対応ができる人物は、定型的知識の記憶にすぐれる学校秀才からは生まれにくいのである"
 
東大や京大には優れた人間が数多く存在します。それは陸軍・海軍大学校においても同様であったでしょう。そんな優秀な人材をもってしても、臨機応変の対応ができる人物は生まれにくいと記載されています。
 
日本軍から現在まで、官僚制度が大きく変わらないのはある意味当然なのかもしれません。学歴に関わらず、能力でその権限や職務が決まるシステムになると、今の政界の重鎮が自分達の既得権益を他人にゆずりわたすことに他なりません。官僚制度が内側から変わることはよっぽどのことがない限り起こり得ないでしょう。であれば、私達国民が外部からその異常性を指摘し続けていくしかありません。
 
現在SAPIXや鉄緑会を中心とした進学塾、有名私立中高が大人気です。これは裏を返すと、一般的な公立の学校では満足できない家庭が多く存在していることに他なりません。形ばかりの教育制度やシステムをとってつけるよりも、「答えのない問題を前にして、如何に情報を集めて、分析を行い、どのような具体的な対策をたてるのがよいのか」といったようなことを教えられる教師の質・教育水準を高めることを目標にすべきではないでしょうか。
 
教育の現場をとびこえて、子ども達の結果に焦点をあてている気がしてなりません。正しい教育があるからこそ、成績の向上につながるはずです。教育現場の変化を考慮することなく、成績の結果ばかり気にする世の中はどうかしています。
 
大切なのは「最近の子ども達の質がおちた」点ではなく、「最近の子ども達の点数がおちている背景には何があるのか」でしょう。他国の水準があがったのか、わが国の水準がおちたのか。おちたとしたなら、その原因は何なのか。
 
私はアメリカで「中の上レベル」のリベラルアーツの大学で生理学と心理学を専攻し、4年半で卒業しました。GPAは3.3程度で、平均すると80点代後半程度でしょうか。大学のレベルはそれほど高くなく、点数はまあそこそこといった感じです。そのため、アイビーリーグのような、超優秀な大学に関しては何もわかりませんが、まあそこそこ普通のアメリカの大学生に関していえば
 
アメリカの大学に行ったから「不測の事態に備えて、それに対応できるずば抜けてすぐれた頭脳がゲットできるわけでばありません」
 
私はアメリカから学ぶというより、日本特有の文化の一部を捨て去ることが重要なのではないかと考えます。
 
戦略全体が曖昧。短期決戦型で、がむしゃらに頑張るけれども、長期的な展望や対策が欠如している。責任の所在が曖昧(問題となった原因が不明)なので、反省しようがない。結果よりもプロセスや精神論が重視される。何かやって失敗するぐらいなら、何もしないでやりすごした方が無難。
 
この考え方が一般化していることに問題があると考えます。
 
 日本以外であれば、何か問題があるときに、何もしないでやりすごそうとすれば、大事にならなくても無能だといって非難されるし、大事になればそれこそ非難の的となります。
 
 しかしながら、日本では「何もしない方が無難」という考えが成り立ってしまいがちです。安倍首相は「何もしない政治家」とは異なります。ただし「戦略が曖昧であれば、その根拠もあいまい。結果よりもプロセスや熱意を重要視する」点については官僚制度の悪しき点をそのまま体現化していることがわかります。
  学校の休校や、諸外国への入国制限やタイミングなど、各種対策の裏にある、論理が全く説明されていません。説明がされていないだけなのか、全くないのか。しかも安倍政権は文書を作成しなかったり、作成されていても都合が悪くなると破棄したりと、およそ文明国家の政治体制としてあり得ない行動がとりつづけられています。
  対策が全て正しく、成功につながるとは限りません。それは日本に限らず、どの政府でも同じです。
  ただし、誤っていると判断された場合、それを素直に認めて対策を柔軟に変更することが大切です。本書では、アメリカ軍はこれを徹底していたことが記されています。
 前回の過ちを認めないことで、それをひきずり「前回の判断と矛盾しない」それほど論理的ではない戦略がたてられてしまう。
 これこそが日本軍が犯した最大の失敗とされています。
 
そもそも政治家は経済の専門家でもなければ、医療の専門家でもありません。二世政治家ともなると学歴すら怪しいものです。そんなリーダーが、専門家の意見も参考にすることなく、歴史的な決断をするなんてことがあり得るでしょうか。本書を読むと、歴史的にも日本ではそういったことが何度も起こってきたことがわかります。
 
また、今回のケースを安倍政権のみで主導していると、次回の混乱時に迅速な対応がとれなくなる可能性が高いと考えます。今回の反省を活かして、国立感染症研究所や医療従事者、政府関係者等による感染対策本部を構築すべきでしょう。新型コロナウイルスに限らず、国外から未知のウイルスが入ってきた可能性がある時、国としてとるべき対応は洗練化されるべきです。
 
政権が交替すると、今回の感染症については責任の所在も曖昧となり、次回の政権が迅速な対策がとれるか非常に不透明です。しかしながら、今回のケースを考慮し、指針をだして、中心となって対策を立てる組織が決まっていれば、政権交代に関係なく継続して感染対策を行うことが可能となります。政権まかせにするよりはるかに安心です。
 
憲法改正を訴えておきながら、問題があると「法にのっとり適切に対応している」。既存の法が完璧なのであれば、憲法など改正する必要はありません。人間がつくるものに完璧なものなどありえません。きちんと問題を把握した上で、法的にはもちろん、倫理的にも問題ないかどうかも検証した上で、「問題ない」と発表されるべきです。
 
「問題ないと考えている」「検証の必要はないと考えている」。こんなことがまかり通るなら政治家の犯罪は誰にも止められません。安倍政権に問題が山積みなのは明らかですが、それを成立させている自民党勢力が存在します。いじめもそうですが、問題のグループは「その中心メンバー」だけでなく、そのグループの存在を「見て見ぬする」あるいは「間接的にサポートする」大多数によって支えられていることがほとんどです。
 
本書を読むと、官僚制度のどうしようもない部分などがかなり浮き彫りとなります。
 
是非ご一読を。

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