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【小説のようなもの】心の行き場

 胸の内を吐き出す場所がなかった人の念は、どこへ行く?

 答えは人の数だけあるだろう。その中の一つとして、私の答えを誰か聞いてほしい。現世で昇華できなかった念は、次に回るという現実を。

 私には前世の記憶がある。500年前、私はイタリアで生きていた。そして、前世の私・イタリアさん(仮名)は今も私の頭の中で生きている。私には私の自我があるので、身体はひとつ、心はふたつ、この世の言葉に置き換えると、その名は、解離性同一性障害?状態になっている。困ってはいないが、正直悩ましい現象が起こることはある。

 イタリアさんは、私の職場で前世で生き別れた弟を見つけた。最初は、脳が騒がしいなあと思うだけだったが、段々と日本語の文章で聞こえるようになってきた。

「大きくなりましたね」
「さびしい思いをさせました」

 職場の同僚に向かって話しかけるようになってしまった。
 もちろん、脳内で私だけに聞こえているにすぎないのだが、これが仕事の効率をどうしても下げてしまう。この声が聞こえると、涙が出てくるからだ。自分のことではないのに、嗚咽に似た呼吸になる。これだけは、正直悩ましい。

 もう一つ、悩ましい、というか気になっていることがある。
 職場の同僚と話している時の、私の態度である。イタリアさんの意識にどうしてもひきずられるので、「私」として対応できているのか段々怪しくなってきた。そして、段々本当の弟のように見えてきてしまっている気がするのだ。現実的な弟ではなく、「生き別れた弟に会えた姉」メンタルに共有がかかってしまったかもしれない。

 同僚の名は、渡辺一大先生という。先生がつくのは、職場が高校だからである。私は今回「秋本冴」という名前になっているので、渡辺先生には「秋本先生」と呼ばれている。私も「渡辺先生」と呼んでいる。奇しくも、生き別れた2人と、同じ年齢差である。何の偶然だろうか。

 初めて渡辺先生と会ったのは、13年も前に遡る。出会った瞬間、ビックリするくらい脳の右上がやかましくなったのを覚えている。わーわーとした声にならない騒音の中で唯一拾った声が「この人だよ」だった。何のことだろう。初めは何も分からず、いつもと違うリアクションを取るイタリアさんのテンションに違和感を覚えていた。私の渡辺先生の第1印象は、無難だが、「新卒の先生」「退職された先生の後任」くらいのものだった。それなのに、イタリアさんがわーわー言うから気になってしょうがない。イタリアさんがわーわー言う時は、本当に何かある時だからだ。

 以前、別の高校にいた時に、新採用の数学の先生と仲良くなった。一緒にいる時間が心地よくて、「この先生とあと3年は一緒に仕事ができてうれしいなあ」と思った時、間を置かずに、イタリアさんに「違うよ」と言われたことがある。初心者は大抵3年は同じ学校にいるので、私は「違うよ」の意味を当時臨時講師だった自分がどこかに飛ばされるのだと思ってザワザワしていた。イタリアさんの「違うよ」は当たった。数学の先生が、1年で辞めてしまったのだ。ああ、そういう「違う」か。イタリアさんには、何が見えていたんだろうか。こんな感じで、いつも結局イタリアさんの言う通りになるのである。

 イタリアさんは渡辺先生の成長?を見るのがとても嬉しいらしい。同じ職場に13年、面影を残しながら大人に成長していくその変化を近くで見続けることが出来るのは神の采配だと言って喜んでいる。イタリアさんの職業がカトリック修道院のシスターだったからだろうか、すぐ「神」という言葉を使う。私はキリスト教は縁遠い存在だが、イエス・キリストの教えは好きである。それは、イタリアさんの影響だろう。でも、イタリアさんは私に信仰を強要したりはしない。私の人生を生きてほしいらしい。不思議な脳内同居だなあと思う。

 イタリアさんが弟と生き別れた理由は、彼女がシスターとして修道院で一生を過ごす道を選んだからである。家族と一生会えない、それが当時のしきたりだったらしい。そして、イタリアさんがシスターになった理由は、妹が魔女狩りの対象となり、火あぶりの刑に処されたことにある。おそらく、それがなかったら、イタリアさんは、シスターにはならずに、家族と幸せに暮らしていたかもしれない。こういう話を脳内で聞くと、どうしても魔女狩りを行ったキリスト教に不信感を抱いてしまうのだが、イタリアさんは、今も敬虔なカトリック教徒である。あなたの心は一体どうなっているのか。意味が分からない。が、まあ、いいだろう。ちなみに私が私の話を聞いているこの状態、一応セルフカウンセリングになっているのだろうか。職業柄、聞くのは得意分野である。今まで溜まりに溜まったイタリアさんの心のうちを、今の私に語ることで少しずつ呪縛が解けてきたように思う。それはそれで良いと思う。

 イタリアさんの話を聞いて、募りすぎた思いは念となり、昇華できないほどの大きさになると次に回ってしまうことが分かった。だからせめて、今を生きる私たちは、溜めずに出しながら、一生のうちに昇華する努力をする必要があると、切実に思う今日この頃。ああ、ここで吐き出せて、ようやく私も楽になれた。聞いてくれてありがとう。



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