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逆⇔本能寺の変-さいごに③-
機会損失に焦った光秀
このように協力者のうち、村重が謀反を起こした時点で光秀はこのクーデターを諦めるべきだった
だが、機会損失に焦ってしまった結果、単独で本能寺の変を起こしてしまった
この時の明智家、織田家たちの家臣たちの平均年齢
神君伊賀越えをした徳川家臣たちの平均年齢は34歳で明智家より5歳も若い
光秀が焦るのもわかる気がする
さらには秀吉と官兵衛に、信長追放ではなく、謀反人光秀を
逆⇔本能寺の変-さいごに②-
黒幕は誰だ
1568年、本圀寺の変において、まず荒木村重と細川幽斎は光秀と同じく将軍足利義昭を守った誼があった
特に村重は摂津、幽斎は、丹後と京都の隣国領主と協力者として、かなり早い段階でこの京都クーデターを呼びかけた可能性が高い
一方、秀吉と家康は、接点が少ないが、ともに命懸けで殿を務めた1571年の金ヶ崎の戦いの際、光秀から「10年後にでもやろう」と持ちかけた可能性がある
元親に関して
逆⇔本能寺の変-まとめ-
1日目⇒愛宕山登山
2日目半日⇒ 本能寺の変ルート
辿ってみてまずは光秀に対して率直な感想
①行動的
② 一方で慎重
③観念的
④一方で現実的
世間的評価とほぼ同じだが、これって石田三成に似てるなと文字化して気づいた 光秀の上司が秀吉だったらお互い上手くいったのかも
時は今 あめが下知る 五月哉
光秀が本能寺の変前に愛宕神社で詠んだ有名な謳
これは天下獲りを示唆していたとよく取
逆⇔本能寺の変-エピローグ-
それからの光秀
信長を討った後、さらに嫡男信忠も二条城で討ち、14時に終結 城内に兵士が500人居た説もあり、これは二条城近くで起こった本圀寺の変で光秀らが籠城し、三好三人衆から足利義昭を守った数に一致する だからこそ反対に攻城のポイントも熟知していたのかも
だが、これで天下人となるには至らなかった信長、信忠の首級を上げられずに本能寺の変が終わってしまった失態を犯している
これは本圀寺の変で
逆⇔本能寺の変_2日目(3/3)
老ノ坂峠⇒王子神社 およそ2kmのルートを車で約4分(徒歩30分程度) 峠を下っていくと景色は一変 田畑が広がり、京都市内から別次元にやって来たようで国境を越えたことを体感する 本能寺跡を出発してからおよそ2時間経過 この遠征の2日目、ここで正午の時刻を迎えた
王子神社
現地の案内板によると、 熊野信仰に基づく、熊野若一皇子を祭神に勧請したこの王子神社は、峠神として親しまれ、また鳥居の下から
逆⇔本能寺の変_2日目(2/3)
本能寺跡⇒桂大橋
前置きにずいぶん費やしてしまったが 改めて本能寺跡からスタート
およそ6kmのルートを車で16分
京都駅直前で右折し、東海道新幹線を左手に行く道は街の中心部にも関わらず意外にもフツーの住宅街
観光では観たことのない光景に触れてテンション上がった
桂大橋
この河畔で光秀が部下たちに信長打倒の意思を示し、「敵は本能寺にあり」の号令を発したされる場所
前述の「
逆⇔本能寺の変_2日目(1/3)
本能寺跡
宿泊先から西へ500mほど直進したところにある老人ホームが跡地
外観は当時を偲ぶのような景色が一切なし
『信長最期の地』とはいえ、 さすが1000年以上の歴史を持つ京の都
「過去は過去」と割り切っている、 というか、潔さすらあった
現・本能寺
本能寺跡から北東約2km先のところに 現・本能寺がある
本圀寺跡
光秀にゆかりのある寺
将軍・足利義昭が本拠地としてい
逆⇔本能寺の変_1日目(3/3)
渡月橋
下山してバスに乗車して嵐山駅へ到着
渡月橋を見学 歴史は古く、836年に架橋したのが始まりで、秦氏にゆかりがあるとかないとか
ちなみに鎌倉時代に亀山上皇が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べ「渡月橋」と命名されたそう
新八茶屋
抹茶と柑橘系のダブルのジェラート 風雅な「渡月橋」を眺めながら味わうジェラートは風味舌下
嵐電嵐山駅構内
屋台が入っ
逆⇔本能寺の変_1日目(2/3)
13:50 愛宕神社境内到着
やっと黒門へ 我ながら時間がかかりすぎ 情けない
年齢不詳の光秀(66歳or54歳説あり)は亀岡からのルートで登ったそうだが、ホントに登ったのだろうか
社務所
このあたりで連歌師の里村紹巴らと「愛宕百韻」を詠んだと云われるが当時の人は誰もが足腰が闊達だったのだろうか
光秀が戦勝祈願したのも「愛宕百韻」を詠んだのも麓にある愛宕念仏寺あたりじゃないのか
自分の
逆⇔本能寺の変-さいごに①-
「本能寺の変」真犯人 諸説も多々あり、事実は今となってはわからない
だが、今回本能寺から亀山城を道のりを辿ってみて、個人的な考えではあるが、やはり明智光秀自身が企てたことに違いないと思っている
その理由と独自の考察としてこれから改めて紹介したい
要するに信長であれ義昭であれ関係なく、時が来ればクーデターを起こそうと、本圀寺の変から12年に渡り、構想を描いていたのだ
その上で、信長に取り入り
逆⇔本能寺の変_1日目(1/3)
愛宕神社
本能寺の変直前の5/27、光秀が戦勝祈願した彼の地へ
光秀の拠点・亀山城から北に位置する愛宕山は標高差約850m
JR嵯峨嵐山駅⇒清滝行きのバスに乗車し清滝ルート登山口に到着
清滝ルートは表参道でもあり、その距離約4.5km 他にも8つルートがあるとか
時刻は10:18
「山岳事故多発11:30以降の登山おやめ下さい」の看板が目に止まる 恐るべし愛宕神社
さすが全国900近
逆⇔本能寺の変-はじめに-
徳川家康は総距離200kmを2泊3日で越えた
実際にできるのか確かめるべく、伊賀越えしたルート(岡崎→堺)を反対に辿った『逆⇔神君伊賀越え』
以前紹介した通り、現地に行って観たり聴いたり、後から調べたりする中でいろいろな発見があり、本当に楽しかった
そして、第2弾を新たに紹介したいと思う
家康がなぜ伊賀越えをしなければならなかったのか
明智光秀が「本能寺の変」を起こしたからだ
でも、光
逆⇔神君伊賀越え-おわりに-
家康一行は総距離200kmを2泊3日で越えられたのか
この道のりを遡ってみて、調べてみての答えは『できなくはない』だった
【理由その1】
200kmのうち乗馬による移動が大半
全て乗馬だったという説もあるが、3日のうち1日程度(40km)は山越えのため徒歩で越えていたと思う
この距離なら現代人の体力でも越えられなくはない
ちなみに200kmのうち、三重⇔愛知間の30km程度は夜の海を船
逆⇔神君伊賀越え-エピローグ-
それからの家康
岡崎に帰還した家康一行
すでに伊賀越え中の6月4日、蒲生賢秀、氏郷父子に信長の弔い合戦として光秀を討つ決意の書状を送り、帰還後、翌日5日に家臣に出陣命令を出している
神君にとって伊賀越えは逃げ帰るだけのゴールではなく、どうやら通過点だったようだ
悪天候等の理由に出陣は延び、ようやく14日に岡崎城を出陣し、桶狭間の先、鳴海へ着陣
残念ながらその前日、秀吉が山崎の戦いで光秀を
逆⇔神君伊賀越え_3日目
奈良、若草山を後にして、同志社大学京田辺キャンパスを通過して3日目、最終日いよいよ開始
ここ尊延寺で京都から大阪の県境を通過してようやくあることに気づいた
普賢寺-尊延寺の距離 ⇒約4km
そう、京都と大阪の県境辺りは、京田辺の隣、高槻、茨木は光秀の与力だった高山右近や中川清秀の領土だった
彼らは山崎の戦いで秀吉に与し、結果的に光秀の敵となるがこのあたりで家康一行を襲ってもおかしくはなかっ
逆⇔神君伊賀越え_2日目(4/4)
さらに京都へ進み、山口城へ
遍照院-山口城の距離 ⇒約8.6km
通ってみて坂道はあるものの、谷間が続くルートだったので馬でも移動できるかと思った
だが、文献によると12時にここで昼食を取り、遍照院へ14時に到着したとある
時間で換算するなら徒歩でのスピードになる
現地の案内板によると山口城は信長の命によって山口秀康が築城したとあった
縄張りは今は茶畑となっているが、近年石垣の巨石が発