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逆⇔神君伊賀越え_3日目


奈良、若草山を後にして、同志社大学京田辺キャンパスを通過して3日目、最終日いよいよ開始

ここ尊延寺で京都から大阪の県境を通過してようやくあることに気づいた

普賢寺-尊延寺の距離 ⇒約4km

そう、京都と大阪の県境辺りは、京田辺の隣、高槻、茨木は光秀の与力だった高山右近や中川清秀の領土だった

彼らは山崎の戦いで秀吉に与し、結果的に光秀の敵となるがこのあたりで家康一行を襲ってもおかしくはなかった

というか光秀、秀吉どちらに与しても家康を討ち取れば手柄になったはず

尊延寺は、京田辺に隣接している大阪府枚方にあり、市域の大部分が丘陵地帯となっている

家康一行はこの尊延寺地区を通ったと云われているそうだが、この地区は信長と敵対していた本願寺勢力の寺内町だった

尊延寺-四條畷の距離 ⇒約15km

四條畷に近づくにつれ、道が狭くなっていく

家康にとって本能寺の変が起こらなかったら信長に会うためこのまま京都へ進んでいたはずの道

また、この時は信長の生存情報等も錯綜していて家康も伊賀越えの決断に迷っていてもおかしくはない

四條畷神社

飯盛山の麓に位置し、楠木正成の息子、正行を主祭神とした神社

この辺りで正午頃、家康らは本能寺の変を知ることになる

前述の本願寺勢や高山右近らが家康を襲わなかったのは、深慮な彼らも信長の生死が不明、謀反者の光秀にこのまま与するかまだ判断がつかなかったかもしれない

四條畷神社-堺の距離 ⇒約28km

四條畷神社付近に正午に着いたとすると徒歩での速さでなら堺を朝6時には出発したことになる

この道のりはまだ本能寺の変の知らせは受けていないはずで、堺から本能寺あたりまでその日のうちに上洛する予定だったかもしれない

千利休屋敷趾

ゴールの堺に着く前に最後の寄り道

当時の敷地と同じ広さかは不明だが、跡地はこじんまりとしていた

現在でいえば東京・両国にある吉良屋敷趾に趣きがよく似ている

千利休は後に秀吉政権で悲運な結末を迎えるが信長が生存していたらどのような人生だったかまた気になるところだ

神君伊賀越えのスタート地点

堺駅にてゴール(8月13日13時)

改札口の上部にはスペイン、ポルトガルとの"南蛮貿易"で栄えた中世堺の面影を残すパネルが展示されていた

この時期、台風で新幹線が計画運休の情報もあり、速攻このまま新大阪へ

指定席もなんとか手に入れることができ、無事帰京

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