城ねこの探訪

気の向くまま/読書/ヨーロッパ百名城

城ねこの探訪

気の向くまま/読書/ヨーロッパ百名城

マガジン

  • 功徳、積読

    功徳と本を積む/ブックレビュー

  • ディスカバリーばかり

    いろんなところへ謁見、発見

  • いざ鎌倉殿の13人

    鎌倉殿の足跡をなぞる、辿る

  • 試しに城メシ

    ご当地の食べ物/ほぼ、早い、ウマい、安い

  • 城オト

    音楽について でも、シロオトなもので

最近の記事

辻村深月著 水底フェスタ

山塊のとある地方を舞台にした物語 著者の作品で、長編モノでは男性が主人公は今回が初読だったかも そのせいかこれまで読んできた作品と似ているようで似ていない 読解はできるけど、もし夏休みの課題図書みたいに感想文を書くとなったらちょっと難しいタイプの作品 #読了

    • 梨木香歩著 雪と珊瑚と

      ある若いシングルマザーが悪戦苦闘しながらも周囲の人から助けを得て成長していくサクセスストーリー あらすじだけ言えばベタになるが、生活を彩る数々の知恵やハウツーが所々に散りばめられている 言語化された登場人物たちの心模様もまたハッとすることが多々あった #読了

      • あをによし奈良の旅-その17-

        清水寺 あれだけ晴れていた天気が着いた途端に曇る 言わずもがな1200年以上も前から存在し、世界遺産にも認定された寺院 仁王門は正門にあたり、応仁の乱の時期、焼失したものの16世紀初めに再建さらには2003年に解体修理されたそう 門の両端には、一対の金剛力士像 三重塔 高さ約31mと国内最大級 1984年まで彩色はなかったものの、''平成の大修理''で、かつての朱塗りであった説に則り、彩色されたそう 本堂 釈迦堂 阿弥陀堂 奥之院 長蛇の観光客の列に加わり、修学

        • あをによし奈良の旅-その16-

          3日目最終日 帰る前に清水寺へ行ってみようと思ったら京都駅前のバスの込みようが凄いので徒歩を選択 3kmの道のりは散策にはちょうどよい距離だけどやっぱり京都の夏は暑かった まずは京都駅から北へ約400m進み、①東本願寺の東門を通過して右折し、 ②約1km進み鴨川を渡河 ③元和キリシタン殉教の地を通過 歴史小説の舞台が続々登場 かの偉人たちが行き来した道を歩いていることを実感 テンション上がる 豊国神社 鴨川渡河の後、東へ500m先で豊臣秀吉像とご対面 神社は豊

        辻村深月著 水底フェスタ

        マガジン

        • 功徳、積読
          146本
        • ディスカバリーばかり
          51本
        • いざ鎌倉殿の13人
          50本
        • 試しに城メシ
          84本
        • 城オト
          18本
        • 江戸藩邸を辿る
          12本

        記事

          あをによし奈良の旅-その15-

          吉野山 十津川村を後にして続いて向かったのは千本桜で有名な吉野山 源義経が静御前たちと頼朝の追手から逃れるため避難した場所でもあったとか 村上義光の墓 後醍醐天皇の皇子、護良親王は十津川の黒木御所を退いた後、今度は吉野に身を置いたそう その時、帯同した信濃埴科出身の村上義光は北条幕府の追手から身代わりとなり護良親王を守ったとか 十津川から吉野に向かったのは移動し易い交通ルートだからよくわかる ただその分追手も追い易い 吉水神社 世界遺産にもなっていて後醍醐天皇

          あをによし奈良の旅-その15-

          あをによし奈良の旅-その14-

          黒木御所跡 谷瀬の吊り橋を渡りたかったのは、ここにも行きたかったから 吊り橋渡り口から200mほど降っていくとひっそりとある 後醍醐天皇の皇子、護良親王が赤坂城を脱出し高野山を経て、ここに身を隠したそう 十津川の豪族、竹原八郎が仮宮殿を建て、一時匿った後、この付近は、馬術や弓術など武術の訓練所としたとか ちなみに十津川の豪族で構成された幕末の志士、尊王派の天誅組はここで幕府軍を迎えて決戦の構想あったそう そういえば隠岐島にも黒木御所ってあったなと思って調べてみたら

          あをによし奈良の旅-その14-

          あをによし奈良の旅-その13-

          谷瀬の吊り橋 長さ297.7m、川からの高さ54m 日本最長の生活用鉄線の吊橋 中央部に幅約80cmの板が、鉄線と30cmおきに渡された横木の上に載っているのみで中央部分まで行くと揺れが激しい 1954年架設から2010年まで小学校が廃校になるまで通学路として利用されていたそう 向こう岸を渡り、まず向かったのは谷瀬の吊り橋が一望できるという絶景スポット 山間部の小さな集落の間を走る生活道は黙々と登る 途中、家からテレビの音が外に聴こえ漏れ、たしかにここで暮らしている人

          あをによし奈良の旅-その13-

          あをによし奈良の旅-その12-

          2日目 十津川村 奈良県の最南端に位置する、本州で一番大きく、琵琶湖や東京23区よりも広い村 近鉄大和八木駅前から出ている村を通る八木新宮特急バスは路線バスの距離で日本一 バスに乗って行ってみたかったけど時間の都合で断念 十津川郷道の駅に到着 癖のない柑橘系のじゃばらのジュースと食感の良いゆず味の串こんにゃくで一息 村役場前の高台にある十津川歴史民俗資料館 入り口ある瓦壁にようなもの 見える人には見える斬新な構成 館内は、以下の通り展示 1階→十津川の昔の暮ら

          あをによし奈良の旅-その12-

          あをによし奈良の旅-その11-

          1日目終了 予定では法隆寺も行くつもりだったけれど残念ながら閉館時間に間に合わず 断念してJR奈良駅から宿泊先の王子へ直行

          あをによし奈良の旅-その11-

          あをによし奈良の旅-その10-

          東大寺大仏殿(その2) 如意輪観音坐像・左 虚空蔵菩薩坐像・右 大仏の左右には脇侍として安置されている木造の観音菩薩 大仏を拝観するのが目的に来ている人が一般的だと思うが、入殿した瞬間、この2体の像の存在も併せて観る人に安心感や荘厳さを与えてるように感じた 江戸期再建時の大仏殿の模型・左 鎌倉期再建時の大仏殿の模型・右 今の大仏殿は左で1691年に建てられたもので3代目 初代奈良時代の大仏殿は、横幅が今よりも横幅約30m大きく、約86mもあったそう 鴟尾(しび)

          あをによし奈良の旅-その10-

          あをによし奈良の旅-その9-

          東大寺大仏殿 世界最大級の木造建造物でおおよそ東西57m、南北50m、高さ48m 大仏の鋳造が終わった後に始まり758年に完成 ちなみに聖武天皇が建てた平城宮の第二次大極殿よりも後になることから都は平城宮から東に拡大し、最終的に山麓のこの東大寺まで到達したと思われる 盧舎那仏(るしゃなぶつ) 聖武天皇が災害や政変等相次ぐ社会不安を仏法の力によって解消しようと大仏造立を発願したのが始まり 752年、大仏の目に筆で瞳を描いて魂を迎え入れる儀式「大仏開眼」で開眼の導師を

          あをによし奈良の旅-その9-

          あをによし奈良の旅-その8-

          東大寺 大和西大寺駅から東大寺まで徒歩でやってきたということは、平城京の西の端から東の端まで歩いたことになると今さら気づいた 偶然ながらも当時の首都の距離感を体感できたことが嬉しい 後から調べてわかる、このラッキー感が史跡巡り、城巡りの何よりの醍醐味 南大門 東大寺の正門で国内最大級の重層門 中国から持ち帰ったとされる建築様式で建てられた二重門は、 通常、上層より下層の屋根の方が大きいのに対して 南大門の場合は、写真の通り真上から観ると上下同じ大きさになっているこ

          あをによし奈良の旅-その8-

          あをによし奈良の旅-その7-

          興福寺 710年、平城遷都の際、 藤原不比等が飛鳥にあった厩坂寺を移築 その際、興福寺に改名したそう 藤原氏の氏寺として寺勢を拡大し、奈良時代には南都4大寺、平安時代には南都7大寺の1つとして栄え、さらに鎌倉時代には大和守護職も勤めていたとか #世界遺産 武士ではなく僧が守護職になっている時点で興福寺がいかに特殊な寺院だったかがわかる 戦国時代には、織田信長と同盟を結びながら"奈良法師"と称された多数の僧兵を抱え、勢力を維持し続けたそう 興福寺といえば子院・宝蔵院

          あをによし奈良の旅-その7-

          あをによし奈良の旅-その6-

          3時間以上堪能した #世界遺産 平城宮跡を後にして次に向かったのは興福寺 距離は約4km 1時間足らずで歩いたものの、炎天下歩く なかなか遠く感じた 奈良は観光地ではなく、住宅地を歩いた方がかつての都の跡地にふとリアルさを感じたりするときがある 京都もそうだったけど、一見さんお断りが解除された、 街に受け入れられた、 の、ような気分になる そして平城宮跡 朱雀門ひろばで開かれた天平たなばた祭り 行きたかった

          あをによし奈良の旅-その6-

          あをによし奈良の旅-その5-

          推定宮内省 天皇家の身の回りに関わる業務を行なったと考えられる建物 奈良時代の間、何度も建て替えられ、都度様変わりした模様 だからか「推定」 現在の復原建物は、奈良時代後半の姿を再現したものだとか 最も大きな建築の「正殿」は、礎石のみの復元留まり 東院庭園 「東宮」あるいは「東院」と呼ばれた平城宮跡東の張り出し部分に位置する庭園 L字型の池を中心に、皇族らが宴会や儀式を行う迎賓館のような役割を果たしていたと考えられ、1998年に復元された

          あをによし奈良の旅-その5-

          あをによし奈良の旅-その4-

          平城宮  第二次大極殿 これまで紹介してきた第一次大極殿は奈良時代前半にあった大極殿で、奈良時代後半は❶の東隣に新しい大極殿を建立したそう ということで再び平城宮にUターンして今度は第二次大極殿へ この感じだと復元は第一次大極殿院が完成後に取り掛かるのかも 何もないこんな広い空と白い雲、久々に見た 貴重な景色 聖武天皇が建てた第二次大極殿 天皇の住まいである内裏跡は真後ろに ■なぜ大極殿跡が2つも残っていたのか 740年〜745年の間、現在の京都、大阪、滋賀と都ごと引

          あをによし奈良の旅-その4-