逆⇔本能寺の変_2日目(2/3)
本能寺跡⇒桂大橋
前置きにずいぶん費やしてしまったが 改めて本能寺跡からスタート
およそ6kmのルートを車で16分
京都駅直前で右折し、東海道新幹線を左手に行く道は街の中心部にも関わらず意外にもフツーの住宅街
観光では観たことのない光景に触れてテンション上がった
桂大橋
この河畔で光秀が部下たちに信長打倒の意思を示し、「敵は本能寺にあり」の号令を発したされる場所
前述の「本圀寺の変」でも最後はここで幕府軍として光秀も勝鬨を上げている
といった縁から光秀がここで号令してもおかしくはない
ちなみに桂川の上流は、1日目に行った渡月橋のある嵐山
この桂川辺りで夜明けを迎えた明智軍
6月の日の出時刻が4時30分頃なので、その前後かと思われる
先鋒の斎藤利三は、ここから幟や旗指物を付けず各諸隊で分進して、本能寺へ急ぐよう下知したそう
現在は、河川敷と野球のグラウンドもあり、のどかな景色
桂大橋⇒樫原(かたぎはら)宿
桂大橋を渡り、およそ3kmのルートを車で12分(徒歩の場合、約1時間弱)
阪急京都線桂駅南側の踏切を渡り、さらに進むと徐々に街並みは変わっていき、山陰街道へ 樫原宿は京都三条大橋を出て山陰街道で最初の宿場町で、交通の要所でもあったそう
樫原宿
江戸時代に入るとここに陣屋も設置され、参勤交代で往来した諸大名が宿舎としたそう
本陣跡がある旧山陰街道のこの辺りは、現在も宿場町の面影を残し、界わいは景観整備地区に指定されている
旧来から交通の要所であり、狭い道だが現在もバスの通路にもなっている
夜明け前、13,000人もの明智軍が家の前を通過されたここの住人たちは何を思ったのだろう
戦国時代の生々しさを感じた
樫原宿⇒金輪寺(沓掛)
およそ3kmのルートを車で約10分 (徒歩1時間弱)
山陰街道を進んでいくと徐々に丘陵地の中腹から高台を横切るような道となり、左手は見晴らしの良い景色が見えてきた
沓掛は京への道と西国への道の分岐点で 明智軍は、ここで休憩して夜食を摂ったそう
『川角太閤記』には、信長討ち入りの情報が漏れないように、光秀は家臣に命じて、外に居たこの付近の農民を斬り殺した記されているとか
ちなみに沓掛を通ったルート以外にも諸説あるので、別働隊がいくつか分かれて 進軍した可能性もあるとかないとか
本能寺の変の「ルート」について記されている主な文献は、信長公記、川角太閤記、豊鑑、明智軍記の4冊
このうち、明智光秀を主人公とした明智軍記では、3手に別れて桂川で合流した推測されている
本隊は山陰街道の❶老ノ坂越え 松尾山経由で
別働隊2部隊は、❷唐櫃越 愛宕山(水尾→保津峡)経由❸明智越え
国際日本文化研究センター
人間文化研究機構を構成する大学共同利用機関
ここにあの歴史学者の磯田道史先生が所属している
勝手に京都御所の付近にあると思っていたがこんなところにあったとは!
西京区は今回初めての遠征だったが知らない京都が見ることができて本当に良かった
金輪寺(沓掛)⇒老ノ坂峠
4kmのルートを車で約9分(徒歩1時間強) 金輪寺を出てすぐのY字路で
左は中国方面に繋がる西国街道の山崎、右は亀岡という分岐点に差し掛かる 老ノ坂は、かつて大江坂(おおえのさか)から変化して、現在この表記になったらしく古文書も大江坂表記が多い
明智軍はおそらく老ノ坂峠を経由したと思われるが、現在は峠の下に2つのトンネルが通っている
車道用→「松風洞」
歩行者、自転車専用道→「和風洞」
この辺りはかつて盗賊の住処として知られていたそうで、鬼の頭領とされる酒呑童子の首塚もあった 真昼でも不気味で独特な雰囲気
「和風洞」の亀岡口に出ると、トンネルの入り口に道○坂と書いてあった
○にツタがかかっていて見えない
前述で『川角太閤記』に、光秀は家臣に命じて、この付近の農民を斬り殺したとあると述べたが、実際には農民ではなく、この付近の山賊の事かと推察
この物物しさからそう思えた
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