逆⇔神君伊賀越え_2日目(4/4)
さらに京都へ進み、山口城へ
遍照院-山口城の距離 ⇒約8.6km
通ってみて坂道はあるものの、谷間が続くルートだったので馬でも移動できるかと思った
だが、文献によると12時にここで昼食を取り、遍照院へ14時に到着したとある
時間で換算するなら徒歩でのスピードになる
現地の案内板によると山口城は信長の命によって山口秀康が築城したとあった
縄張りは今は茶畑となっているが、近年石垣の巨石が発見されたとか
安全面でここで一泊も考えたのではないだろうか
ちなみにここで馬を乗り換え信楽(小川城)に向かったと現地の案内板に記されており、徒歩ではなかったことがここで発覚
そして木津川を渡るため草内の渡しへ
山口城-草内の渡しの距離 ⇒約7.7km
文献では山口城から新主膳正末景という武将ら出迎えたとあり、岸辺で予め待機していたのだろう
前述の通り乗馬で移動したことが判明したが、徒歩の速度と変わらないため供廻りが馬を引いての移動だったと思う
なるほど納得
朝の8時にこの木津川を船で渡った家康一行
現地の案内板には「この渡しのふきんでしんがりをつとめた家臣の穴山梅雪が命を落とした」とあった
"しんがり"、"家臣"というワードがとても気になる
草内の渡しの手前あった穴山梅雪の墓
渡しから南へ約2.5kmの所に位置し、近くには飯岡古墳群がある
現地の案内板によるとこの付近から梅雪が主将となり家康と二手に分かれて宿泊
信長憎しの土民集団を引き受けて最後は自害したと地元では口伝されているそう
普賢寺
草内の渡し-普賢寺の距離 ⇒約5km
本能寺の変の翌日、6月3日の6時〜7時にこのルートを通過
これまで紹介してきた伊賀、甲賀の道より単調だが、民家が多く、統制のない土民の方が動きの予測がつかないため、いきなり襲われたらむしろやっかいだったかもしれない
家康一行1日目の宿泊地
実際は近隣の農家に宿泊したとか
協力してくれた地元農民たちの案内を受け興戸を経由し進んだとされる
ちなみに調べてみたら近隣の南山城村は1580年から明智光秀の飛び地の領地だったことが判明
木津川の渡河を家康や梅雪がなぜそこまで警戒していたかの理由がよくわかった
普賢寺を訪ねた後、 逆⇔神君伊賀越え2日目、これにて終了
本日の宿泊先、奈良の新大宮へ
宿泊先近くの餃子屋さんで夕食
明日に備えて昨日に続き早めの就寝
若草山
逆⇔神君伊賀越えのルートに戻る前にせっかく奈良に来たので、翌朝、寄り道して若草山山頂へ初ドライブ
昨年行ってきた平城京らしき跡地が右中間あたりに見えるような見えないような
この市街地全体を眺めていると、奈良は東西を軸に形成された都だと改めて感じる
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