「ダンサーインザダーク」映画感想
この世界での苦しみを
深海で汚染を浄化するように
ひっそりと生きる、
水をきれいにして、また流す
セルマはミュージカル、空想の世界で
小さなころからそうして循環を保っていた
セルマの内面世界は、豊かにひろがる
どんな立場でも、関係なく
みながリズムにのって
なかよく歌い踊る
あたたかい家
そんなセルマという人は
とてもあたたかい感じがする人・・
彼女の髪や歯、
セーターまでも、あたたかくて懐かしい
チェコから米への移民であり、シングルマザーで
ひとり息子を育てる、工場勤務
彼女は遺伝性の目の疾患を持ち
もうすぐ失明する。
息子の目にも遺伝性があるため
手術費を貯金。
大家であるアメリカ人夫婦の夫が
その金をねらう
セルマともみ合いになり、はずみで射殺してしまう。
セルマという人を”感じ”れば、
いい人間であることは直感的にわかる
しかし、セルマの言い分を
法や理屈の枠に押し込み、裁こうとする
1+1=2の型へ押し込み、
扱いたいように扱う
(ひとは見たいものを見ている)
まるで流水をパッキングして処理する作業のようだ
そのなかでセルマは諦観にいたる
自己を犠牲にし死刑判決を受け入れ、
息子の手術が無事に終わることにかける
まわりは言う
「手術代を弁護士費用に変え、再審を。あの子に必要なのは母親」
セルマは言う
「ちがう、必要なのは目(視力)」
「君の息子が、(絞首刑のとき)最期のときに立ち会えるようにと考えた
でも年齢制限があって駄目だった」
「一体誰の入れ知恵なの?
母親の死刑なのよ?」
まわりの友人は善意
しかし、このアメリカ的なストーリーラインともいえる
二項対立的な発想を思わせる
連綿と続く流動的なヨーロッパの文化
そのながれを汲むセルマの瞳には、深く成熟したたましいが宿っている
彼女と米の友人との対話には
セルマのしずかな諦念が流れる
「息子にはノヴィと名乗るように伝えて
大切なことなの」
オルドヴィッチ・ノヴィという男性ミュージカルダンサー
の姓を名乗るように伝える
チェコ出身
セルマには父親がおらず
息子にも父親が居ない
セルマが幼いころより映画館でよるべとしてきた
あたたかい”家”のような存在だったのかもしれない、
おなじ国の彼の名前が
息子を守ってくれるように
そう思ったのかも知れない
「目の病気が遺伝すると知って
なぜ産んだんだ」
「赤ちゃんを抱きたかったの
この腕に」
20年程前に鑑賞したこの映画の
このセリフとシーンが、筆者に想起され光った
このシーンが、筆者のどこかに入り、生きており
とおくその影響が
筆者と、筆者の息子を引きあわせたのかもしれない(出産の決意)
そんなことを思った
(筆者の子は遺伝性障害:自閉症である)
絞首刑になるその日
恐怖で動けなくなるセルマだが
絞首台への107歩のステップを
アフリカ系
ヨーロッパ系の囚人たちと抱き合い、わかちあう
その他のいろいろな囚人たち
聖書、イエス像
セルマの世界は彼らの痛みと共鳴し
ふたたび歌が生をとりもどす
(現実にもどる)
絞首刑の瞬間
セルマはパニックにおちいる
あまりに冷酷な世界に
友人が駆け寄り、息子のメガネを手渡す
息子の手術が無事成功したことを告げる
セルマはふたたび生気をとりもどす
ほとんど視力をうしなったセルマが
目を閉じ、息子の存在、その生が連綿と続くこと
そのエネルギーを思い出し、ふたたび歌いはじめる
歌声の途中で刑が実行され
吊るされたセルマの遺体
「これは最後の歌じゃない
わたしたちがそうさせないなら」
連綿とつづくエネルギー
分断されたいとなみ
20年前に、わたしのからだに入っていた
セルマのメッセージ(エネルギー)
「赤ちゃんを抱きたかったの
この腕に」
終わらない歌を歌う
「ロバート・ロバーソン」
娘を養育中にうしなう
テキサス州で、乳幼児への不適切な対応にて
殺人罪に問われ、死刑判決が決定
SBSという症候群がうたがわれているが
現在、弁護団等により重要な科学的、医学的証拠により、
慢性疾患を患っていた彼の娘ニッキが、自然死と事故死の組み合わせで死亡したことが示されている。
また彼は自閉スペクトラム症があり、捜査の際に印象的に誤解をあたえたことが
州が有罪とする要因となったのではとおもわれる。
弁護団のなかには自閉症団体も含まれている。
執行まであと1カ月を切っている。
(有罪判決を受けて、ロバーソンの弁護団は、ニッキが敗血症性ショックを発症した重度のウイルス性および細菌性肺炎で死亡し、体内の危険なレベルのプロメタジンによって症状が悪化したことを突き止めた。この薬は、ニッキが死亡する直前に2人の医師によって処方されていた。)