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アパートが燃え始めたとき、私が抱えて避難したただひとつのもの

火災というものに初めて遭遇して、「自分にとって何が本当に大切なのか」を改めて考えた話。


私が火災にあった顛末

異常に気づく

長年住んでいるアパートの同じ階で、火災が発生したときの話をします。7月も後半に入った日曜日の朝、5時を少し回って、空も明るくなってきた時間帯のことです。

私がこの早い時間に目を覚ましたのは、「いつもと違う物音と空気感」によるものでした。朝方の意識というのは、ぼんやりと目覚めてから徐々にはっきりしてくるものなので、始まりの記憶は曖昧です。ただ、そうして半分目覚めてから「パンッ」という破裂音が2回ほど聞こえたことと、それがあまりにも至近距離で生々しく、スマホで動画再生したときにスピーカーから聞こえてくる音とか、ずっと遠くのほうで聞こえる打ち上げ花火の音などとは明確に質感の異なる音だったというのは覚えています。それは「アパートの部屋の中では聞こえるはずのない音」なので、かなり異常な感覚でした。

カーテンを開けてすぐに、ベランダの右手側から何か黒いものがフワリと飛んでくるのが目に入りました。この部屋は3階です。ちょうどハガキ大の紙を燃やしたとき、黒くなった燃え残りが風で飛ばされるところにそっくりで、これもやはり何か異常なことが起きているとしか思えません。窓を開けて、ベランダから身を乗り出して右手側を見ると、2つ3つ向こうの部屋に見える位置から、かなりの勢いで黒煙が上がっているのが見えました。私の隣の部屋の住人もまったく同じタイミングで気づいたらしく、ベランダの仕切りの向こうから「火事だ火事だ」というつぶやくような声が聞こえました。

既に通報が行われたらしく、下の道路には消防の車両が2台到着しており、7〜8名の人が慌ただしく動いているのが見えました。隣人のつぶやくような声は聞こえたのに、これらの車両が到着したときに鳴らされていたはずのサイレンの音は、不思議とまったく耳に入っていませんでした。

急いで逃げる

7月の暑い季節に寝ている格好というのは、そのまま外に出られるような状態ではないので、急いで服を着ました。部屋に目視できるレベルの煙は入っていませんでしたが、火災とわかる匂いがしています。即座の判断の中で、私はポケットに財布とスマートフォンを入れ、そして手には「あるもの」だけを抱えて(これが何だったのかはすぐに後述します)、靴を履いて部屋を出ました。

ドアの並ぶ通路には既に消防隊員が到着していて、放水のためのホースも展開されつつありました。目に入ったのは4〜5名ほど。私の隣の部屋にホースを通して消火活動を行うようでしたが、邪魔になるといけないのですぐに階段へと向かいました。ちなみに部屋を出るとき、ちょうど隊員さんがホースを伸ばす作業でうちの玄関の前にしゃがんでいたらしく、ドアを押しても開かなくてかなり焦りました(慌てる私にドアでぐいぐい押された隊員さんに陳謝……)。消火活動の都合を考えて、ドアの鍵はかけずに出ました。

1階に降りて正面の通りに出ると、消防の車両が8台、警察の車両が2台、テキパキと動き回るそれらの関係者、広げられた作業テーブルのようなもの、担架などが目に入りました。同じアパートから避難したと思われる人たちと、ご近所から出てきたと思われる数名の野次馬などもいます。

外から見上げると、出火した部屋は私の部屋から見て3つ向こうの部屋でした。黒煙はまだ上がっていますが、炎までは外に出ていないところを見ると、おそらく問題の部屋の内側は燃えても建物の枠組み自体は燃えていないというか、それほど猛烈な燃え方ではないようです。

たくさんの消防車両と人員が駆け付けたのは、おそらく通報だけでは火災の正確な規模が判断できないため、予想よりも上に振れた場合に対応できるだけの資源を最初から投入するようになっているのでしょう。昔の戦争を描いた漫画などでたまに出てくる「戦力の逐次投入を避ける」という話を思い出しました。

冷静になる

普段暮らしているアパートから黒煙が上がり、馴染みの生活道路が緊急車両で埋め尽くされるというのは、住民からするとかなり衝撃的な光景です。とはいえ、消防や警察の方からすると「建物の全焼や近隣への延焼が心配されるものではない、珍しくない小規模な火災」といったものに見えていたのかもしれません。

ふと、喉が渇いていることに気づいたので、近くの自販機でペットボトルの水を買いました。鎮火が確認されたのは、私の避難から30分は経たない程度だったと思います。歩道にしゃがみ込んで水を飲み、煙が収まりつつある様子を見上げていたとき、消防隊員さんから「この建物の方ですか?」と声をかけられました。「そうです」と答えると、また関係者の輪の中に戻ってしばらく会話が交わされたあと、「もう部屋に戻っても大丈夫です」と伝えられました。

玄関前の通路では、まだ消防の方々が対応を続けています。こちらに目を向けた隊員の方に一声かけて、自分の部屋へと戻りました。なんとなく、いつものように少し散らかった部屋が何も変わらずにそのまま残っているということが、妙に不思議な光景として映りました。

命以外に何を持ち出したのか

火災の発生から鎮火までの話はここまでにして、避難にあたって私が持ち出したものの話をします。

住宅の火災というのは当然、逃げ遅れればその場で人生が終わる可能性があります。「この本は絶版だから、焼けたらもう手に入らないよなあ」などといって本棚の中身を吟味している暇はありません。実際、私にとって本というのはかなり大切なものではありますが、「今いるアパートで火が上がっているらしい」と気づいてから部屋を出るまで、本のことなどは考えもしませんでした。

おそらくほとんどの人は、充電ケーブルに繋がったスマホが枕元に置かれているし、お財布と鍵もすぐに手に取れるような場所に置いてあると思います。これらについては、よほどの非常事態(既に自分の部屋の中にまで火の手が回っているなど)でない限り、問題なく持ち出せるでしょう。私が服を着てから部屋を出るまでの短い時間ですぐに手に取ったのも、これらのものです。

そして、これ以外に唯一、私が持ち出したものがあります。

羽毛の生え替わりの時期につき、お顔がゴワゴワです

それは文鳥様です。当然です! 我が子を置いて避難する人間がどこにいますか?!

私の家に文鳥(ふみ子1歳)がいるということは、このnoteや私のSNSのフォロワーさんでしたらよくご存知だと思うので、「何を持ち出したのか」の答えは予測できた人も多いことでしょう(正解の方はおめでとう!)。つまり、私は財布・スマホ・家の鍵というすぐ持ち出せるものを除けば、命だけを持ち出して避難したということになります。

うちの子はただでさえビビりなのに、突然ザワザワした屋外に連れ出されたので、大層ビビっていました。文鳥は怖がっているときや警戒しているとき、身体が目に見えてシュッと細くなります。なので避難中はひたすら細くなっていたのですが、この写真は細くなるのが少しだけ落ち着いたあとの状態です。

こうした変わった事態のときには、自然と面識のない人とでも立ち話が発生したりします。歩道でご近所さんと思われる人と少し話した際に、小鳥のかわいらしさもついでに褒めてもらえました。よかったね。

続いて、私が部屋にそのまま残してきたものについて考えてみることにします。

逆に、私が持ち出さなかったもの

楽器

私の家には、製造から100年以上が経っているようなアンティークの楽器がいくつかあります。(→以前書いた記事「コンサーティーナより美しい楽器ってある? (2023.12.3)」を参照)

アンティーク以外の新品購入した楽器も合わせると、台数は全部で6台。そしてこの手の品は購入後も価格が落ちない(むしろ希少性によって上昇する)という性質があり、時価にするとだいたい250〜300万円くらいになるはずです。我が家にあるものの値段としては、これが間違いなく最も高価な品物です。

さらに、アンティークの楽器というのは、既に存在しなくなっているメーカーのものがほとんどですし、カスタムオーダーで製作されたと思われる楽器もあります。つまり一点ものであり、一度失われたら時価相当のお金を積んだとしても、基本的に再入手はできません。

楽器は取っ手のついたハードケースに入れられており、小鳥のケージで片手が塞がるという状況でも、1つだけであれば持って避難することもできたはずです。しかし、クローゼットを開けてどの楽器を持ち出そうかなどと考え込むことはありませんでした。

単に高価であるというだけでなく、愛着や思い出という点でも、これらの楽器は私にとって特別なものです。しかし、それでも命の関わるような状況では、本能的・瞬間的な判断として「捨ててもいいもの」に分類されるのだなということがわかりました。

パソコンとデジタルデータ

ノートPCやスマホに重要なデジタルデータが入っているという人は多いと思います。私のように個人で働いている人間の場合、膨大な時間と労力を注ぎ込んだ仕事上のデータをもう一度作り直せと言われたらその場で気絶するんじゃないかと思いますし、プライベートでもスマホには5年分や10年分といった思い出の写真が入っています。

私の場合、これらはすべてクラウドストレージ上に同期とバックアップがありました。仮にノートPCが焼けてしまったら、それはそれで買い直す出費が痛手になりますが、これらのデジタル機器については、非常事態の際には切り捨てていいものに分類されます。中身のデータが復元できれば何も問題ないからです。

機器の故障時だけでなく、物理災害時にもクラウド上への同期やバックアップは役に立つんだな、ということを改めて認識しました。

これはさきほど書いたとおりです。必要なものを選んでいる暇がありません。また、絶版の本があるといっても、それほど希少で特殊なものを集めているわけではないので、最悪お金をかければ古書で再入手できるものの割合はそれなりに高い気がします。

メメントモリの盛り盛りで

災害が私たちに気づかせてくれるもの

当日の出来事と、持ち出したもの・持ち出さなかったものについて書きましたので、ここからは後日改めて考えたことについてです。

私が2ヶ月ほど前に出版した本「投資に正解は存在するか:堅実な株式投資と資産形成の入門ガイド」(noteにも試し読み版があります)の中に、「投資と生活を結びつける」という章がありました。この本は、ごく普通の社会人がしっかり資産形成をしていくための現実的な方法を解説したものなので、金融に関する専門的な知識の他に、節約と貯蓄などの身近な話題も含まれた内容となっています。

この中で指摘したのは、次のような点です。

  • 投資で着実に結果を出していくには、まとまった資金の確保がどうしても必要であり、そのためには地道な節約が必須である(少額の資金から「一発大きく当てる」のような解決を期待するべきではない)

  • 無駄遣いを抑えるためには、「我慢する」のではなく、それが「無駄である」という深い実感を持つことが必要

  • つまり、そもそもいらないものに対しては、「欲しい」という気持ちそのものが起こらなくなったほうがよい

このことを説明する際、私は以下のようなエピソードを持ち出しました。書籍の本文から引用します。

ここで個人的なエピソードを出してみると、筆者自身が生活のシンプルさを重視する価値観に切り替わったことには、2011年の東日本大震災が関係しています。当時の筆者の居住地に直接的な大きな被害はなかったものの、東北の太平洋沿岸の市街地における津波被害の映像をネット上で繰り返し見たことを覚えています。被災を経験した読者もいると思うので、詳しい描写は行いませんが、このとき私の中に起こったのは「すべてのものはこのように失われるのか」という生々しく圧倒的な感覚でした。

ラテン語の警句にメメント・モリ(memento mori)という言葉があって、これは「いつか自分が死ぬということを忘れるな」という意味です。また、仏教には無常という言葉があり、これも「人の世も物質的な世界も、何も永遠ではない」という事実を示すものです。2011年に記録された津波の映像は、私にそのような用語がただの抽象概念ではなく、現実世界の説明であるという実感を与えました。

「投資に正解は存在するか:堅実な株式投資と資産形成の入門ガイド」、p.250-251

この当時の津波の映像というのはかなりショッキングなものでしたが、今回の自分自身が遭遇した火災は、もう少し冷静な形で、私の中に同じような感覚を引き起こしたように感じます。

あらゆるものは失われる

この世にあるものは、基本的にはすべてが失われるものです。それは2011年の東北のように平日の午後に起こるかもしれないし、私の場合は実際にはそうならなかったわけですが、もしかしたら今回の火災のように、何の変哲もない日曜日の朝に起こるものなのかもしれません。

今回の経験で言えば、私の所有物として最も高価であると同時に、長年の演奏活動の思い出の詰まったアンティークの楽器は、「最悪、失われても仕方がないもの」の側に分類されました。つまり、物質的なモノに関しては、ほとんどがそちら側に分類されると考えていいことになります。少なくとも、私自身の価値観に照らせばそうなります。

所有物には無形のものもあって、さきほども触れたデジタルデータの形の写真がそれです。これは既に述べたように、私の場合はバックアップが存在しているので、事故などで完全に失われる可能性は低いと言えます。しかし、仮定の話として、これが失われたらどうでしょう?

正直、気持ち的にはかなりキツい気がしますが、思い出というのは頭の中にもちゃんと残っていますし、そのような経験を通して出来上がった自分という人間がここにいて、その経験を共有した友人なども別の場所で生きています。ということは、こうした写真でさえも、失ったら失ったでなんとかなるものなのかもしれせん。

では、失いたくないものは何だったのか

そうなると、今回のような災害でどうしても失いたくないものは何かと考えると、それは命だけなのではないか、という考えにたどり着きます。私自身とか、あなたとか、うちの場合は文鳥のふみ子とかです。今回の火災の件で、実際に私が持ち出したものですね。

火災や大規模な地震被害、津波などで多くのものを失った人に「命だけは助かってよかった」という言葉が向けられることがあります。そして、こうしたコメントを「配慮に欠けている」と感じる人もいます。なぜかというと、当たり前に存在していた自分の部屋や街の景色が予告なしに突然失われて、もう同じ形には戻らないというのは、明らかにただごとではないからです。そこで「よかった」という言葉を安易に使うのは不適切だ、というわけです。

しかし究極的には、やはり命以外は「捨ててもなんとかなるもの」に分類されるのではないでしょうか? 少なくとも私にとっては、今回の事件の顛末が、「命以外はさほど重要ではない」という事実の確認になったような気がしています。これが今回のお話全体の結論になります。

あなた自身の生活はどうでしょう? 生きている時間よりも大切なものが、何か他にありますか?

命が助かった尊い文鳥様のその後(生え替わりが終わってフワフワになりました)

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