人間関係の空席と満席
「あの子、彼氏できた途端に付き合いが悪くなったよね」
ありがちな話。特に、その友達付き合いが昔からのものであると「ぽっと出の男に……」という感じの深いモヤモヤが醸し出される。
この発言の例ですぐに連想されるのは、大学一年生とかそれくらいで、まだ忙しく仕事に追われているような身ではない。それでも、誰にとっても一日は24時間しかないし、身体はひとつしかない。何かに新しくエネルギーを割けば、他に向けられていた分は減る。人が他者に割けるリソースの上限は決まっているからだ。
これが友達との約束をあっさり反故にするといった、旧来の関係を雑に扱うような具体的な行動として表れているなら、それは確かに問題がある。しかしながら、状況の変化によって人付き合いの優先度を調整していくこと自体を責めることはできない。
自分という存在の優先度を下げられたら、誰だって悲しい。それでも、こうした調整の権利は誰もが持っている。スケジュール帳の空きは限られているし、人間的な関心や愛情といった内的なエネルギーも、無尽蔵に湧いてくるものではない。すべてを得ることはできないのだ。
🐟 🐟 🐟
「すべてに全力」というのは原理的に不可能だ。これは仕事やプライベートといった領域を問わず、有限であるところの人間がすることならば、何にでも当てはまる。
予算500円でお茶菓子を用意するとき、来客が1人なら、その人に500円が全額そのまま使える。一度に5人来るなら、それぞれに対して100円ずつでやりくりするしかない。
スポーツ指導者でもビジネスマンでも、たまに「圧倒的な努力さえすれば、予算500円であっても5人全員に500円ずつ配分できるはずだ」と思っている人がいる。バカを言ってはいけない。この世に無限のリソースなどない。
🐟 🐟 🐟
人間の周りには、その人にとって大切な人だけが座れる、見えない椅子が用意されている。そして、その席の数は限られている。
たとえば、少なくともまともな倫理観を持っている人であれば、異性のパートナーのための座席は定員1名である。親友と呼べるような人も、同じく1名か、多くても2名まで。もし「親友が5人いる」などと言われたら、ちょっとその「親友」という言葉の定義が一般的な感覚と違うのかな、という印象を受けそうだ。
もっと普通の友達というものを考えたとき、趣味の集まりなどで「顔を合わせれば親しく話す」という人がそれなりに多くいたとしても、個人的に連絡を取り合うような相手となれば、もう少し数は減るだろう。
私にとって、友達の定義のひとつは「用事がなくてもときどきこちらから連絡を取りたくなる相手」である。そして、これに該当する座席の数は、おそらく片手で数えられる範囲に収まる。
🐟 🐟 🐟
「誰かの大切な席に自分を座らせてほしい」と思ったとき、大人になると、この空席が周りから徐々に減りつつあるらしい、ということに気づく。
「人間関係には十分満たされていて、全然寂しくない」なんていう人は、いてもごくわずかだろう。とはいえ、まったくの孤独だという人も世の中にはあまりいなくて、人間関係が苦手だと若い頃から言い続けているような人も、年齢を重ねる過程でそれなりに大切な相手を見つけていく。
誰かと親密になりたいと思って、勇気を出してその人に近づいたのに、反応が芳しくなくて落ち込むということがある。こういうとき、励ましの言葉として「人間関係というのは相性の問題なので、必ずしもあなたに魅力がなかったということではない」ということはよく指摘される。しかし、もう少しよく考えてみれば、これは「お互いの相性が悪かった」ということを意味していない可能性すらある。
何が悪かったのかというと、それはタイミングである。純粋に人間性というものだけを考えれば、仲良くなれる可能性は十分にあったかもしれないが、たまたまその人の「大切な人のための椅子」に空席がなかったのだ。
お腹が空いていなければ、どれほどおいしそうなものを勧められても「今はいいかな。ありがとう」と断るだろう。人間関係では、実はそういうことがけっこうある。
🐟 🐟 🐟
恋愛や結婚の話の場合、この空席という概念ははっきりと意識されるし、一般的にもよく強調されることだ。気になる人が現れれば、パートナーの有無を真っ先に確認するだろうし、年齢を重ねるとチャンスが減る傾向があるというのは誰でも知っている。
ところが、この仕組みは友人関係にも当てはまるのだ。さらに、人は成熟すると、自分の力で自分を支えられる部分が増えていく。自家発電が可能になる。つまり、その人が他者のために用意しておく椅子の絶対数が減るということも考えられる。
10代の学生であれば、毎日つるむ仲間を求めるのは自然なことだ。大人はそうではない。自分から周りに求めるものが徐々に少なくなり、それは他の人たちも同じなので、自分という存在が求められる機会も少なくなっていく。もちろん、別れというものはどんな関係にも訪れうるので、ときどき空席が出ることもある。それは本当にときどきだ。
どうすればいいのだろう。他者の空席にどうこう言うことはできないので、私たちが空席に出会うためには、それに目を光らせながら、地道に日々の関係性のネットワークを広げていくしかない。信じられないくらいの遅さで。ほとんど恋愛と同じだ。努力の余地は存在する。しかし、それは大工仕事の努力というより、釣り人の努力のような形になるだろう。
人間関係の空席と満席。この概念を知っておくことは重要だ。お腹がいっぱいで食べ物を断った人は、別にその食べ物が嫌いなわけではないし、それを勧めたあなたのことを嫌いなわけでもない。その点を正しく理解しておこう。
何のためにかというと、それはあなたが人間関係を、そして自分という存在に期待することを、諦めてしまわないためだ。
(essay 5 - 2024.8.26)
関連記事
「よりよく生きる」の記事から
会社で隣の席だった子が大切な友達になった話 (2023.11.26)
君にも希望に満ちていた時期があったんじゃないか? (2023.12.30)
努力は状況によって引き起こされる (2024.6.1)
「ショートエッセイ」の記事から
仲良しあの子と非ユークリッド幾何学 (2024.6.26)
変化と拡張の感覚について (2024.8.8)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?