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許せるアイテム

迷惑行為に該当する言動をしてる人間が気になってしまう。カフェで大きな声で騒ぐ、電車で足を開いて座る、改札など人通りの多い動線で立ち止まる、、、
自分に余裕がないと考えるのか、相手にそれはあかんやろと思っていいのか、共生社会はなんとも難しい。

先日、電車で隣に座った人が、イヤホンではなくスマホ本体を耳に当てて音楽を聴いていた。スピーカーから直接音が出ているので、音漏れどころではなかった。
うーん、、と思った。聞きたくない音が聞こえるのは辛い。ここで、チラッと当人の方を見るとスマホを持っていた手と反対側の手に分厚い太宰治の本を持っていた。
それを見たらなんとなく溜飲が下がる感じがした。知らない他人に許すも何も無いのだが、許せた。彼がもし自己啓発本を持っていたら許せなかったと思う。太宰治の本読む人ならまぁ仕方ないか!と許せた。何となく音が気になる度合いがグッと下がった。不思議な体験だった。

いいなと思った。私も、この太宰治の本に該当するアイテムを持っていれば許される度合いも高まるのかなと。

似たようなもので、駅で騒いでる人でもヘルプマークを付けているとなんとなく「あー」ってなる。でもそれは正直ネガティブな許しだ。「そういう障害なんだから仕方ないよね、許してよね」感。本人は意図してないだろうけど勝手にそんな捉え方をしてしまう。優しさとか理性みたいなもので許す感じ。

対して太宰治を片手に持った人は、ポジティブに許せた気がする。自分の中で腑に落ちたというか、‘’変な人が変なことをやっている”と思えた。ものすごくマニアックな研究をしていたり、何かにやたら詳しいひとだったり、クリエイティブなことをされていたり、そういう方のことはポジティブに「変な人」と思うことがある。星野源さんのエッセイで読んだ「変態」に該当する感覚。彼は変態をポジティブに捉えていたが、私も「変な人」をポジティブに思う。自分の好きが分かっていて突き進んでいる様子は格好よく見えたりする。

ヘルプマークを付けている方は私の中で「変な人」ではないんだと思う。心の底からそう思っているのか何かしらの理性で思っているのかは分からないし、「普通の人」と思っているのかどうかも分からない。私の中では自分も含めて「そういう人」という認識をしてしまう。大きな音を出したり人が迷惑に思うような行為には変わり無かったりするのに、迷惑に思ってはいけないという何かがある。許容を強制されているような。
こちらから彼らに迷惑をかけなければ、こちらが何を思ってもいいはずなのに。
満員電車で赤ちゃんが大きな声で泣き始めたとき、あたたかく見守れずに少し苛立ってしまって、自分は性格が悪いと勝手に落ち込む時のような、そういうの。

本来、嫌だなと思うのは生物学よりの反応だ。
自分の安寧が崩されそうになると、人は怒ったり不安になったりする。大きな声や賑やかな場所が苦手なのは自分の安全が脅かされると体が認識するからだ。その後の行動をどうするかはおいておいて、赤ちゃんの泣き声や、そういう人の寄生、大きな声で話してるオバサンたち、、彼らの言動を不快と感じること自体は、間違ってると責める必要なないのだと思っている。

太宰治を持った人を許せたのは、自分の安全が脅かされる危険性が低いと認識できたからかもしれない。変な人は、変なだけで危害を加えられた経験もないから。
「そういう人」も赤ちゃんも、大きな甲高い声のオバサンも、沢山関わって危険はないと認識できる体になったら、もう少し楽に暮らせるんだろうか。みんな、太宰治の本みたいにポジティブに許せるアイテムを装備してくれないかな。
自分だって迷惑かけて生きてるのに、そもそも許す許さないなんてこと考える立場じゃないんだろうけど


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