早晩

急峻な途を、穏やかではない呼吸で、しかし、一歩一歩を確かめながら確かに上へと歩いている。体が発する熱が、冷たい外気と溶けて、纏う疲労の重しに、僅かばかりの軽やかさをくれた。
「今からだって間に合うよ。降りたって良いんだ。僕のわがままに付き合わなくたって良いんだよ。」
背中に背負った繭がちろりと鈴の鳴るような声で行った。
「なぁに、問題ない。どうせ気づいたら天辺だ。それにこれは俺のわがままでもある。」
答えて自分は上を仰ぎ見た。既に頂きは近くに見えている。繭に包まれている彼は、その目であたりを見ることができないから、まだ戻れると思ったのだろう。既に戻るにはおそすぎる所まで来ていたのだ。
「山っていうのは、随分と冷たいんだね」
背中の彼は、ふとつぶやくように言った。
「あゝ、骨の芯まで凍えるくらいに冷たくなる。だが、それでも頂から見る景色が、魂に火をともしてくれる。」
「うん、楽しみだな!どんな世界が広がっているんだろう!」
「楽しみにしててくれ。身を焦がすほどの景色が、君を待っている。」
背中で楽しげに繭がうごいめいた。急がなければ、もうじきだろう。吐く息は鞴のようだ。今、彼を運ぶための己自身を燃え上がらせる追い風の炎だ。前へ、前へ、今日という日が、彼にとって最良の門出となるように、前へ、前へ。
「すごいよ。カンカンカンカン、早鐘だよ。ずっとずっと鳴ってるね。大丈夫なの?」
「これくらい、屁でもないさ。むしろこれくらい早く動いてくれなきゃ、サボってるつって、ケツを蹴り上げに行くさ。」
「自分の心臓なのに蹴り上げに行くになんてヘンなの!」
ケラケラと揺れる繭をしっかりと背負って、最期の拍車をかける。それがわかったのか、背中の彼は、ふつりと揺れるのをやめて、静かになった。
幾度か、息を大きく荒らげ、弱りに弱った喉からは、かすれきった血が滲んでいることがわかった。
終いには這うように体を進め、ようやく己は役割を果たせたことを確信した。
背負った彼に負担をかけないように、そっとおろしてやる。
「ついたの?」
「あゝ、ついた。」
「お疲れ様!よーし!じゃあむくむく出ちゃうぞぉ!」
元気のいい彼の声とともに、左右にゆらゆらと揺れるとともに、繭からその体を出そうと奮迅しているのがわかった。自分の体を近くの岩に凭れてその様子を眺めた。
暫くの間ゆらゆら揺れた後、ピタリとその動きを止めて、ゆったいりとその繭がちぎれ開かれる。ようやく形を得たかのように、柔らかく、力強く現れた彼の体から、薄く湯気が立っていた。
「すごいすごい!すっごく高いよ!広い、広いね!世界は広いんだ!空、空!山にみんな綺麗だなぁ!!ねぇねぇ明るいと暗いがあるよ!あれかな?朝と夜が混じってるのかなぁ!綺麗だねぇ!」
神秘的なその体を存分に震わして、彼は世界を目のあたりにして感動している。その、明らかに自分とは異なる姿を見ると、自身が否が応でも旧き者になったのだと理解できた。最早、人類が暮らすには厳しくなりすぎた。遅かれ早かれ先人類が去るこの星で、次に文明を切り開くのは彼、彼らなのだろう。彼は旗印だ。この美しき世界の中で、次なる繁栄の先駆けになる。その誕生を見ることが、できた。
「うわぁ!どんどん明るくなっていくねぇ!これが夜明けなんだね!新しい一日の始まりなんだ!ね?そうだろ?ほら、疲れすぎて休むのはわかるけど、そんなところに寝転んじゃだめだよ!もう朝になるのに!」
拙く歩み寄る彼の手が人に触れる。彼ははっとして、息を飲んだ。はしゃぎ、興奮した面持ちはキリと引き締められ、その体を大きく広げる。
冷たくとも苦にもならないその風を浴び、体は乾き、時が来たのだと彼は悟った。その足を切り立った場所へと進め、改めて彼は世界をその心で見た。
ふわりと体が倒れ、分厚い風の壁と、臓腑が浮き上がる急降下を感じる。
そして彼は、飛翔した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?