六鹿
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丁寧あるいはしなやかに生きることと、自由に生きることの違い。 創作料理はたいてい不味い。 自分の中の自然至上主義のような部分は少しずつ薄れて来た。古代の人々はどのように信仰と向き合って来たのだろうか。自分の心の中に神殿を築くにしてはあまりにもだらしがない。 ピート・アロンソ。シロクマの愛称。 たまたま旅行先の宿のすぐそばに白山島という島があった。近ごろは何かと白山に出会う。
創作をしている、という事実に人は反応する。聴かせたところで癒しだのジブリだの。 楽しみの無い心に楽しみは積もらない。苦しみが倍積もる。独りよがりはサラリーマンで強制?広い世界?くだらないボードゲームだ。生きる辛さを幸福の歯車に出来る人間がこの世を支配している。何もかもつまらない。こう言えば、世界を知らないねと諭されるこの年齢が憎らしい。 幸福で示そう。無いなら創ろう。今は断片でも、初老から死の瞬間まで光り続けるオーダーメイドの自分の影を。理解が無くとも耐えられよう。 前
作っていて楽しくもなく、作る明確な理由があるわけでもなく、稼ぎにもならないのに、創作を何故苦行のように続けているのだろうか。聴き返して嬉しくなることはいくらかあるとしても、それが自分が本当に求めているものなのか、どんな時も自分の心を救ってくれるのか、人生を捧げるべきものなのか分からない。多少の喜びと、この精神的苦労を天秤にかけた時に、果たしてどっちを取るのが自分にとって幸福なのか分からない。心を満たす音楽を聴いたことがないのに、いつかこれだと思うものができるかもしれないと、何
書くことが何もない。一日中頭が茫としている。 言葉を使って偽りの姿を保とうとしているだけに思えてきた。結局、他者との関係の中でしか生きられないのか。 とりあえず今は考えないで居たい。何も分からないで良い。
去年までの暖かな冬は厳しい寒さに代わり、ゆっくりとした世の中は一変し吹き曝しの日々を作り上げていく。いつもなら感傷に浸るような出来事の数々も、この年のエネルギーをもってして恐ろしいほどに淡々と押し進んでゆく。自分の生活もそれに倣うように、人との関わりが増え、ピアノの生徒が出来、ペットが急死し、そういった出来事がこの先の肯定的未来への転換のために無理やり巻き起こされるが如く積み重なる。気持ちの整理はおざなりのままだ。そういう年なのかもしれない。 社会の一片としての生活が少しず
家に帰ると、家のインコが亡くなっていた。 3羽のうち、もっとも美しい毛並と、飛ぶことのできない羽を持っていた。臆病で人の手を怖がったが、ベランダでは雀たちと仲良さげに鳴き合っていた。 5年前、大学2年生の春休み。近くの小鳥屋に行き、2羽のセキセイインコを指差した。 「この子とこの子ください。」 命の入った小さな箱を抱え、そっと歩いて帰った。 寮がペット可か不可かなんてことはどうでも良かった。 もともと言葉なんて存在しないのに、人の道とやらが存在するかのように振る舞う世
最近は幸福に生きている。自分に何も課さないで、太陽の光を浴びて、のんびりしたい時にのんびりしている。これが幸福の基本ということを、やっと受け入れられた気がする。 何をしている時の自分も許して愛してやれるようになりたい。 幼少期の記憶。 日常のさりげない空気の中で、ふと時間を忘れ、自分が優しい空気に包まれていることに気付いた記憶。 普通に、鬱病だったのだと思う。もう苦しんで生きるのは辞めようと思う。 だからいま、なにか焦燥感に駆られて苦しんでいないか、理想よりも問題点の方を
昨日一人で飲んだら今朝は二日酔いでしんどかった。最近は高校野球を見たり、気の向くままに過ごしている。 これで24ヶ月連続投稿らしい。25歳になった。 New works.
易経というものを知った。発見もあった。 最近は暑くて、用が無ければ殆ど家から出ていない。今日は久しぶりにコンビニでレトルトのパスタを買って食べた。大学生の頃の生活が懐かしくなった。 家から出ていないとはいうものの学生時代と比べれば予定や外出の数は確実に増えているわけで、いわゆる「健康」的な過ごし方になっていることを何かにつけて実感する。でもあの4年間は私にとってかけがえのない記憶で、部屋の電気さえ嫌っていた暗い生活はこれまでのどんな社会的生活よりも私自身を表していたと思う
新曲の触り。 特筆すべき出来事のない日々のなかに、ささやかな憂鬱と自己否定、小さな偶然と幸運とがはらはらと訪れている。 頭はぼんやりとしている。人を意識せず、人に意識されずにいたい。
坂口安吾「堕落論」を読んだ。 本来の人間は自然と堕落していくものである。戦後の兵士は闇屋となり、未亡人の女たちは新しい恋をする。人間とはそんなものだからこそ国のトップは、人を駒として使うために、逃げ傷は恥だとか義理人情だとかいう観念を都合よく作り上げる。 そういった偽りの「美徳」に背き、むしろ人間は堕落しきることによって「武士道精神」や天皇制などという上級国民の都合で作られた「美徳」に左右されず、自分の信条を真面目に考えるきっかけとなる、という論理にとても納得した。 この
ただ、一切は過ぎてゆきます New Work. 《墓》 恨み辛みは私を守る人たちにお渡ししましょう。私は今を生きただけの、ただの風
あえて記すことのない平凡な日々。少し早く起きることもあれば遅く起きることもある。 最近は身の周りの人の、お互いに悪く言っているのばかり聞こえてくるようで、自分もその一員ではあるが、この悪循環はやっぱり誰かが断たねばならぬ。人には酸いも甘いもあること、いつでも間違いを犯すということを認め、微笑もて愛を為さねばならぬ。これを為すためにはやはりカルチベートされているほうがた易く、家族それぞれの過去についてなど多少は知っておくのもよかろうと思う。 あれだけ面倒だった布団の洗濯を、
太宰治「正義と微笑」を読み終えた。思春期の主人公が事あるごとに、自分の偏見や有言不実行といった人間らしさに苦悩しつつも、最終的に明るい未来を手にしていくのは意外だった。平坦な表現の端々にときどき上品な言葉が垣間見えて、日常的な美しさを感じた。 「正義」という言葉は、挫折をまだ知らない芹川進の理想像であった。しかし彼はそれを捨て切って楽になろうとはしないだろう。自分の人間らしさと理想との両方を見つめるという試行錯誤が、これからの彼に始まっていくのかもしれない。 曇りの日は、
人と話す場のある仕事。別段やりがいは無い。 結局目に見えたものを全てそのまま捉えることは出来なかった。雨漏りのように、印象と偏見とは押し寄せて飲み込んでくる。 アフリカではカバによる襲撃の死亡者数が年間500人を超えるらしい。 モンシロチョウの寿命は1ヶ月より短いらしい。 古民家暮らしブームの成れの果て。表面的な理想や美は壊れやすい。 過去の文章が気に入らないのは若さや無知の証拠だ。ここでの日記にも脚色された表現が多いが、その奥に当時抱えていた苦悶の痕跡が残っていれ
童心を持った人もいずれは親になる。 責任というリスクが無ければ、人は頻繁にミスを犯す生き物であるらしい。役人が細かな部分にも目を光らせるのは、社会の歯車全体が瓦解せぬようにと躾けられた結果として後天的に手に入れた能力だ。 動物の肉は生だと美味しくない。もしかすると食事に楽しみを感じているのは人間だけなのかもしれない。前にも書いたか。動物はただ淡々と生きているだけなのかもしれない。 生き物はゴムのようだ。元の自然な状態から、生き抜く為に、色々な無理をする。生物学ではそれを