ライザ風
童心を持った人もいずれは親になる。
責任というリスクが無ければ、人は頻繁にミスを犯す生き物であるらしい。役人が細かな部分にも目を光らせるのは、社会の歯車全体が瓦解せぬようにと躾けられた結果として後天的に手に入れた能力だ。
動物の肉は生だと美味しくない。もしかすると食事に楽しみを感じているのは人間だけなのかもしれない。前にも書いたか。動物はただ淡々と生きているだけなのかもしれない。
生き物はゴムのようだ。元の自然な状態から、生き抜く為に、色々な無理をする。生物学ではそれを進化と呼び、社会ではそれを成長と呼ぶと思う。
ヒトの歴史はそれほど永くはないだろうが、近頃はどのくらい進化をしているのだろうか。
あまりしていないのだとしたら、もう進化する必要は無くなったということだ。生き抜く身体を手に入れたということだ。
あまりしていないのだとしたら、我々は顔の皮や腹の肉をぎちぎちと引っ張り、これ以上必要の無い強靭な皮膚と分厚い筋肉とをわざわざ必死にこさえていることになる。得たのと引き換えに何を失っているのだろう。
思考が始まるきっかけは、たいてい、脳内か現実で予期しないことが起こった時だ。
信仰と思考とが共存できるとはあまり思えない。思考を働かせた瞬間に、既に信仰から遠ざかっている感じがする。
すべての人間的活動が悲しい。罪悪感からはこの先も逃れられないだろう。
常に誰かを傷つけてきた。臆病は無害なように思えるけれどもそうではない。窮地に立つとき、自分が仲間はずれにならない為に誰かを傷つけようとするからだ。
私が誰かを望んでいないということは同時に、誰も私を望んでいないということだ。
私は独りよがりになってゆくだろう。けれども、誰かを傷付けるよりはましだ。報われてはいけない。忘れやすく誤りやすいこの心は、冷えた孤独に晒されていなくてはならない。
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