ライザ風

童心を持った人もいずれは親になる。



責任というリスクが無ければ、人は頻繁にミスを犯す生き物であるらしい。役人が細かな部分にも目を光らせるのは、社会の歯車全体が瓦解せぬようにと躾けられた結果として後天的に手に入れた能力だ。


動物の肉は生だと美味しくない。もしかすると食事に楽しみを感じているのは人間だけなのかもしれない。前にも書いたか。動物はただ淡々と生きているだけなのかもしれない。


生き物はゴムのようだ。元の自然な状態から、生き抜く為に、色々な無理をする。生物学ではそれを進化と呼び、社会ではそれを成長と呼ぶと思う。

ヒトの歴史はそれほど永くはないだろうが、近頃はどのくらい進化をしているのだろうか。
あまりしていないのだとしたら、もう進化する必要は無くなったということだ。生き抜く身体を手に入れたということだ。
あまりしていないのだとしたら、我々は顔の皮や腹の肉をぎちぎちと引っ張り、これ以上必要の無い強靭な皮膚と分厚い筋肉とをわざわざ必死にこさえていることになる。得たのと引き換えに何を失っているのだろう。



思考が始まるきっかけは、たいてい、脳内か現実で予期しないことが起こった時だ。

信仰と思考とが共存できるとはあまり思えない。思考を働かせた瞬間に、既に信仰から遠ざかっている感じがする。



すべての人間的活動が悲しい。罪悪感からはこの先も逃れられないだろう。


常に誰かを傷つけてきた。臆病は無害なように思えるけれどもそうではない。窮地に立つとき、自分が仲間はずれにならない為に誰かを傷つけようとするからだ。


私が誰かを望んでいないということは同時に、誰も私を望んでいないということだ。


私は独りよがりになってゆくだろう。けれども、誰かを傷付けるよりはましだ。報われてはいけない。忘れやすく誤りやすいこの心は、冷えた孤独に晒されていなくてはならない。



感性を活かし輝くか
人間界への抵抗を強めてしまうか

きっと君のテーマなんでしょうね。

代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちの御健康を祈ります。」すこし青い顔をして、ちっとも笑わず、先生のほうから僕たちにお辞儀をした。

太宰治「正義と微笑」

晴れたり、曇ったり。きょうは、午前十一時に起床した。別に変った事も無い。それは、当り前の話だ。日曜だからって、何かいい事があるかと思うのは間違いだ。人生は、平凡なものなんだ。

同上

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