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天草騒動

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島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。伝奇小説のような趣もあり、読み物としてたいへんに楽しめるものです。目次のページからお読みください。
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#城

天草騒動・目次

はじめに  島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。冒頭を読め…

天草騒動 「35. 江戸表へ注進の事」

 さて、板倉殿をはじめとする軍監らが評議し、「この城の様子ではなかなか簡単には落とせそう…

天草騒動 「23. 三宅藤右衛門後詰め働きの事」

 深木七郎右衛門は一旦は一揆を破ったが、蘆塚の指図で配下の者をほとんど討たれてしまった。…

天草騒動 「22.蘆塚知謀をもって唐津勢を破る事」

 その夜の深夜、一揆の者らは用意万端ととのったので、村の家のあちこちに火をかけ、「火事だ…

天草騒動 「20. 天草四郎を大将に立てる事」

 ここに天草四郎という者がいた。  父は肥前国島原領原村の大庄屋(二十二か村、石高一万石…

天草騒動 「19. 浪士のともがらを大将に頼む事」

 このように大江村の騒動はもともと六七人の浪人たちの奸計から出たことであったが、その浪人…

天草騒動 「18. 富岡の士不覚の事」

 凡夫が心を傾けて一途に思い込むときは、理非もわからず思慮も無いものである。六人の浪士が計略をめぐらし、森、大矢野、千々輪、赤星、蘆塚は近郷五六里を手分けして大江村の椿事を触れ回り、弁に任せて切支丹宗の信仰を勧めたので、愚民どもは希代のことだと思い込んでしまった。  天草島の十四か村の百姓が次々と大江村の治兵衛の家に集まって参拝して、広い家の中が立錐の余地も無いほどであった。  年寄どもが協議して、「このように奇瑞を聞き伝えて日に日に参詣人が増えていくからには、仮殿をつく

天草騒動 「16. 天草島諸浪人の由来の事」

 さて、また同じ島の中に赤星宗範という鍼医者がいた。身の丈五尺三寸、顔色白く蒼髭があって…

天草騒動 「15. 天草島浪人森宗意軒の事」

 九州の肥前は十一郡六十万石の大国で、西南は海で左は薩摩潟、後ろは筑前筑後、また、海の向…

天草騒動 「13. 千寿院、京都にて召し捕られる事」

 さて、耶蘇宗門が厳しく御制禁されたため、しばらくのあいだ諸国は穏やかであったが、元和元…

天草騒動 「12. 切支丹宗門きびしく御制禁の事」

 慶長三年八月十八日、秀吉公は伏見にて薨御された。秀頼公が幼かったため、徳川内府公が天下…

天草騒動 「11. 市橋島田両人の奇術を上覧の事」

 時に天正十六年九月、秀吉公は伏見の城に在城されていた。  その頃、堺の町人の天王寺屋宗…

天草騒動 「10. 南蛮寺破却の事」

 さて、中村修理の家で白翁居士と南蛮寺のヒヤンが宗論をし、ヒヤンは問い詰められて一言半句…

天草騒動 「14. 板倉伊賀守殿の賢明なる成敗の事」

 京都所司代板倉伊賀守殿は当代の名士で、身分の上下を問わずその徳を賞賛していた。このたびの修験者萬海の雨乞いの一件については洛中洛外にその噂が広まっていたので、怪しい者と考えて召し捕って吟味にかけることになった。  伊賀守殿が、「雨乞いの法と偽って人々をたぶらかすとは不届きである。」とお叱りになったところ、萬海は、「私は人をたぶらかしたりなどしておりません。村々から頼まれたので雨乞いをおこなったのです。」と、答えた。  板倉殿が、「汝はいずれの門葉か。」と仰せになると、萬