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天草騒動 「19. 浪士のともがらを大将に頼む事」

 このように大江村の騒動はもともと六七人の浪人たちの奸計から出たことであったが、その浪人たちが表面上は当惑したふりをして百姓どもにその罪を逃れられないことを言い聞かせたので、一同は額を合わせて今後のことをあれこれ議論し始めた。

 奉行や代官を殺した下手人に関しては、一座の庄屋たちが首を並べてほかの者を救うことを願い出ればすむこともありうるが、御法度ごはっとの切支丹宗を信仰していた罪は逃れ難いので、いまさらのように一同困り果ててしまい、さてなんとかする方法はないものか、良いお考えはありませんかと浪人らに泣きついた。

 蘆塚忠右衛門と前から密かに示し合せていたことだったので、作左衛門が進み出て、

「それがしはこの宗門を信仰しているわけではないが、たまたまいあわせてこの席につらなったからには、罪科を逃れることはできないでしょう。しかし、人の知らないうちに処刑されるのは残念です。相談するのは事前にしなければならないのに、このように事が起こってしまってからではどうしようもありません。こうなった上は、各人心を決して、島中を引き込んで一揆を起こし、領主の兵庫頭のふだんの無理非道の行いを天に訴え、富岡の城を攻め取ってそこを根城に他へも撃って出て、運を天に任せるよりほかにないでしょう。どうですか」と、言った。

 この島で生まれた者は他国のことを知らない者が多く、ことに若い者が勇み立って、「島中が一致すれば天下に恐れるものはあるまい。その考えはもっともだ。今年の夏秋の作物を取り込んで兵糧に困らないようにしよう。」と叫んだり、また、「耶蘇を信仰している者がわずかな日々でも安楽に暮らすことができ、死後は天帝のお助けで天上に生まれかわる事ができるに違いない」と、口々に言った。

 浪士たちは、「してやったり」と喜び、口をそろえて、「今となってはやむをえないことだから、皆の考えはもっともだ。浦の人々と一緒になって、富岡から討手が来ないうちに一揆を起こし、こちらから攻め寄せてやろう」と煽動したので、庄屋をはじめとして一同同意した。

 まず天草治兵衛が白木綿で天帝の旗を十本用意した。

 庄屋たちが相談して、「武家の作法、いくさ立て、城攻め、陣取りなどについて、我々は全然知りません。幸い六人の方々は由緒正しい武士だそうですから、この一揆の大将になってくださるようお願いします。万事指図してください。」と申し出た。

 六人の者たちは、
「ここに住んでいるからには辞退もできません。我々がつねづね学んでいることなので、引き受けましょう。これからは何事もこちらの指図を守ってください。しかし、一揆の人数が多いので、我々だけでは下知が行き届かないでしょう。この辺の浪人たちは皆懇意にしているので、彼らにも頼みましょう。まず名簿をつくります」と言って、仲間に加わってくれそうな人々の名を記した。

 蘆塚忠右衛門
 千々輪五郎左衛門
 大矢野作左衛門
 赤星内膳
 天草玄察
 森 宗意軒
 鹿子木左京
 天草甚兵衛
 駒木根八兵衛
 千束善右衛門
 蘆塚忠太夫
 蘆塚左内
 柄本左京
 山田右衛門
 田崎刑部
 戸塚宗右衛門
 有馬休意

 この人々を、天草の古老は十七人衆と呼んだ。これらは、評定衆といって頭分かしらぶんである。

 百姓は六組に分け、それぞれかしらの名を付け、何々組、何々組と呼んだ。そのうちで一騎当千の者は、次のとおりである。

 楠浦八兵衛
 大江治兵衛
 布津村代右衛門
 菅村吉兵衛
 柏瀬茂右衛門
 四鬼丹波
 島田八三郎

 この七人を大頭おおがしらとした。

 着到した人員を記すと、大江村、布津ふつ村、本渡ほんど村、島子村、千束ちづか村、種ヶ島村、小島、天草、島田、島戸島をはじめ四十三か村、その他、出村等の百姓を合わせて八千三百余人、および、女・子供数千人であった。これだけの人数が、たった一日で集まったのである。

 その中で鉄砲を持っている者を選んでそれぞれの組を決め、鉄砲三百五十挺とし、白木綿の旗十本を用意し、同じ小旗と合い印をつけて六組に分けた。

 また、軍令を決めて寺々から太鼓を集め、ほら貝の代わりに竹筒を用意し、大江村は事の発端の場所なので会所かいしょと名付けた。

 にわかにこのような軍勢ができあがって勇み立っていたのはまことに不思議なことであったが、これも、元はといえば、たった六人の浪士の胸のうちから起こったことである。

 時に寛永十四年八月十一日、天草じゅうの村という村が蜂起して騒動を起こし、残るところはわずかに富岡城の城下町とその近辺だけであったが、これらも内情は不穏であった。

 富岡の城代の三宅藤右衛門は知勇兼備の士であり、先代の寺澤志摩守の頃からの老臣で、二千石の知行を領していた。

 今度の騒動のことを聞いて三宅はおおいに驚き、
「百姓どもが邪宗門を信仰した上に役人を殺害したことだけでも重罪なのに、さらにその上に一揆を起こすとは不届き至極である。ただちに征伐するべきであるが、今、この城は小勢で、武士が三十人そこそこと鉄砲が五十挺あるだけなので、今度の大勢の一揆を鎮めるのは困難であろう」と考え、本城の唐津に急を告げて救援を求めた。

 ところが、ちょうどその時は、領主の兵庫頭殿が江戸に滞在していて不在であった。執権の原田伊予がただちに加勢すべきであったのに、日頃三宅と不和だったので、不忠にも今度の一揆を三宅の落ち度にしてやろうと考えて、わざと援軍を遅らせた。

 一方、近国の諸侯や家老の面々は、この騒動を聞いてすぐに人数をそろえ、武具や馬具などの用意を整えて境界を固め、幕府の下知を待っていた。

 細川、鍋島ら大大名の家老は、「このような際には他領であろうと踏み込んで一揆に勢いがつかないうちに鎮めることこそ幕府に対する忠義であろう」と考え、「すでに大阪城の御城代の阿部備後守殿に注進しておいたから、この件に関してはいちいち江戸に伺うには及ぶまい」と、それぞれに一揆を鎮めるための処置をした。

 これらの措置は、後に将軍の耳に達して御感に預かったということである。


天草四郎を総大将に立てる事

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