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天草騒動

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島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。伝奇小説のような趣もあり、読み物としてたいへんに楽しめるものです。目次のページからお読みください。
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天草騒動・目次

はじめに  島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。冒頭を読め…

天草騒動 「68. 大団円の事」

 しばらくして松平伊豆守殿と戸田左門殿が江戸表にお帰りになり、このたびの一揆の鎮定につい…

天草騒動 「67. 諸将御軍令によって糺明の事」

 さて、北条殿は、二月二十六日に原の城下に着陣し、二十七日から城攻めにかかり、二十八日に…

天草騒動 「66. 山田右衛門助命の事」

 落城後、諸大名衆は高久の城に入って戦功の評議をされた。  まず、生け捕った者に首級を見…

天草騒動 「65. 渡邊四郎大夫最期の事」

 さて、一揆の巨魁、四郎大夫時貞は、伯父の甚兵衛をはじめとする一揆五十人をしたがえて、天…

天草騒動 「64. 蘆塚忠右衛門討死の事」

 さて、荒神ヶ洞の伏兵がだんだん討死していく中で、去年以来一揆の者らが軍師として頼りにし…

天草騒動 「63. 長岡帯刀、大矢野作左衛門を討ち取る事」

 やがて鍋島甲斐守殿の軍勢が単独で、原城の落城の跡から桧山の荒神ヶ洞の後ろに押し寄せ、 「この洞窟の中に一揆の残賊どもが隠れておろう。この詰めの城の一番乗り、鍋島甲斐守直澄なり。尋常に最期の勝負をせよ」と、大音声で呼ばわった。  他の軍勢はそれを聞いて、 「甲州は血気にはやり、武勇に慢心して気が狂われたのではないか。たった今落城したというのに、どうしてあのような事をするのか。笑止千万。」と、囁きあった。  ところが不思議なことに、にわかに山が震動し、その洞穴の中から天主の

天草騒動 「62. 細川家手楯の事」

 さて、細川越中守殿は老巧の良将であったので、「黒田家の勢に負けるな。賊城はこの一戦で落…

天草騒動 「61. 原の城手詰めの戦働きの事」

 さて、北條安房守氏長殿は、夕日の光が城山に映るのを見て、 「日光が白くて黒くはない。こ…

天草騒動 「60. 原の城二の丸を攻め落とす事」

 一将勇なれば万卒これにしたがう、というが本当にそのとおりである。甲斐守殿が二の丸を乗っ…

天草騒動 「59. 千々輪五郎左衛門討死の事」

 千々輪五郎左衛門は一騎当千の勇士であったが、惜しいことに方向を間違えて逆徒の頭分になっ…

天草騒動 「58. 鍋島甲斐守殿、二の城戸一番乗りの事」

 さて、鍋島甲斐守殿は今朝の卯の刻から城攻めを始め、出丸を一番に乗り破ったあと、人馬を休…

天草騒動 「57. 仁木勘解由、智弁の事」

 さて小笠原殿は、戦の次第を征討使に注進する使い番を誰にしようかと考えていたが、仁木勘…

天草騒動 「56. 森宗意軒最期の事」

 さて、豊前国小倉城主の小笠原右近将監殿は、同姓備後守殿、同姓匠頭殿、その他総勢一万八千人余りで一族を引き連れて出陣したものの、今回は攻め口の割り当ての都合で戦場に向かうことができなかった。  小笠原家にはまだそれほどの功も無く、また、以前、例の山田右衛門の内応の矢文が小笠原家からもたらされて城攻めを失敗したことがあったので、評判がよくなかった。  右近将監殿はひどく憤怒し、 「わしの祖父の兵部少輔と父の信濃守の両人は大坂の合戦で討ち死にして武勇を輝かせ、また、弟の大学