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天草騒動 「60. 原の城二の丸を攻め落とす事」

 一将勇なれば万卒これにしたがう、というが本当にそのとおりである。甲斐守殿が二の丸を乗っ取られたので、諸国の寄せ手もそれにならって押し寄せた。

 中でも細川家の老臣の長岡監物父子をはじめとして松井、有吉、溝口らが押し寄せたが、この城戸口にはとても深い空堀があり、そのために進めなくなっていた。

 この口を守る頭は、有馬久兵衛、柏瀬茂右衛門で、まだ飢え疲れていない一揆二百五十人をしたがえて防戦していた。

 長岡監物はこのありさまを見て、「この程度の堀、どれほどのことがあろうか。」と言い、長柄の槍を十本づつ結わえたものを二百束ほど堀に渡し、雑兵を堀の中に入れて担がせて橋のように連ねさせた。一同その上をやすやすと渡って塀の下に取り付いた。また、足軽を堀の中に入れて、横合いから鉄砲を撃ちかけさせた。

 そこに大矢野作左衛門が、配下の菅沼善兵衛ら一揆百人ばかりをしたがえてやって来て、城戸きどを押し開いた。

 大矢野が陣頭に立って進み、大音声で、
「本多出雲守の元家来、人にも知られた大矢野作左衛門なり。浪人者の手並みを見よっ」と名乗りをあげて、塀の柱に紅の母衣をくくりつけ、鞠のように丸めてあった綱を取り出して柱に結び付け、その綱に伝わって堀の中にひらりと飛び込み、長柄の槍を担いだ雑兵を七八人打ち伏せた。

 そのため、例の橋はがらがらと堀の中に落ちてしまい、渡りかけていた兵士二十人余りが堀の中に落ちてうろたえまわった。そこを大矢野は例の十本結んだ槍のうちから一本引き抜いて、突き立てまくりたてた。

 長岡帯刀はそれを見て、身繕いして空堀に飛び込もうとしたが、そこに長岡の配下の富永兵庫が走って来て、帯刀のうしろから、「ごめんなさい。お先に。」と声をかけて堀に飛び込み、大矢野に打ってかかった。

 大矢野も太刀を抜き合わせて戦った。兵庫もかなりの勇士だったので怯まず退かず打ち合ったが、大矢野が苛立って打ち込んだ太刀を兵庫は受けそこなって、まっぷたつに斬り倒されてしまった。

 帯刀は、目の前で兵庫が討たれたのを無念に思い、「帯刀ここにあり。」と名乗って空堀に飛び込んだ。

 父の監物がそれを見て、「主人の戦いを安閑と眺めている腰抜けがおるかっ。わしは年老いてはいるが、一働きして手並みのほどを見せてくれるっ」と言って、薙刀を打ち振って駆けて行こうとしたため、家臣がどうしてためらっていられようか、二三十人が我先に空堀に飛び込んで大矢野に打ってかかった。

 作左衛門はそれをかわし、垂らしてあった綱を伝わって、猿が木の枝を伝わるように身軽に上に戻った。

 綱はそのままにしておき、「もしもこの綱につかまって先陣する者がいたら、絶対に撃ってはいけない」と言いつけて、城戸を固めさせ、自分は城内に退いた。

 この戦いの間、大手と二の丸の間に千々輪、大矢野の両人がいたので黒田の大軍も容易には乗り込めなかったのであるが、今、大矢野が引き揚げたのを見て、「それっ、この口を打ち破れ。」と蟻が群がるように押し詰めた。

 黒田筑前守殿も、「細川勢に負けるな。」と下知して揉みに揉んで攻め込んだので、一揆の将島川八五郎が塀の上に立って四方に下知して防戦したが、結局かなわず、浦上三郎兵衛が一番に塀に登り着いた。

 それに続いて、大軍が我も我もと塀を乗り越え、二万五千人余りが二の丸に押し入ったため、一揆は持ちこたえることができず本丸に退いた。したがって、二の丸大手の一番乗りは黒田家の軍勢である。

 細川家の長岡監物と長岡帯刀がそれを見て、「あっ、黒田家の勢が乗り込んだぞ。進め、進め」と下知したが、誰一人として進まなかった。

 帯刀が怒って、大矢野が残して行った例の綱につかまって、難なく塀に飛び乗ってみると、刃向かう敵は一人もいなかった。「旗を、旗を」と呼びながら、配下の者がが持ってきた旗を手早く押し立て、「二の丸の出口を乗っ取ったり」と呼ばわった。

 さてまた、寺澤、松倉の両将はそれを見て、「この城が他家に乗っ取られたら、当家にとって武門の恥辱。本丸の一番乗りは是非とも当家でおこなえ。」と両家の軍勢に下知し、曲輪に登って本丸を見渡そうとした。

 それを蘆塚忠右衛門が見て、「寺澤松倉勢だ。それっ、追い払え。」と下知したので、「心得たり。」と言うやいなや、大矢野作左衛門が一揆百人余りをしたがえ、寺澤松倉の旗をめがけて、「彼らこそ年来の仇敵。一人残さず討ち取れっ」と、鬨の声をあげて突きかかった。

 それに続いて菅沼善兵衛も二番手に繰り出し、一斉にどっと喚いてかかって行ったので、いつもの一揆の手並みを知っている寺澤・松倉両家の軍勢は、臆病神がついたように早くも負け戦の様子を見せて乱れたった。

 そこを大矢野が、ここぞとばかりに真一文字に突き立て、馳せ立て、追い落としたので、その勢いに両勢とも右往左往して敗走した。

 大矢野は場数を踏んでいて戦いに馴れていたので、長追い無用と適当なところで味方の陣に引き返し、勝鬨かちどきをあげてその場に控えた。

 一方、菅沼善兵衛は逃げる寄せ手を追いまくり、百人余りで山を下りて、相手構わず戦いながら進んでいった。

 二の丸を離れて寄せ手を追いかけていったところ、立花飛騨守殿が、「一人残らず皆殺しにせよ」と下知して馳せ向かい、後ろからは有馬家の軍勢八千人余りが打ってかかり、一揆の小勢を取り囲んで、菅沼をはじめとして一人残らず討ち取った。

 さて、諸方が落ちて残るは本丸だけになり、全軍が山々に充満してはいたが、本丸は高い山の上にあり、巌石が峨々とそびえた堅固な地である。

 山の上に三百間四方の平地があり、そこに大将の天草四郎大夫時貞をはじめとして、蘆塚忠右衛門を軍師とする屈強な兵士たちが立てこもっていた。天草甚兵衛、天草玄察を組頭として二千人余りがおり、筒先を揃えて鉄砲を撃ち出すため、なかなか近寄れなかった。

 寄せ手は思ったように攻めることができず、互いに弓や鉄砲を打ち合うばかりで早くも日は西の山に落ちていった。

 征討使の軍勢も山の中腹まで旗を進められ、伊豆守殿の家老の深井藤右衛門は配下の三百人を引き連れて攻め口に押し寄せたものの、どうしようもなく、それぞれの口に一同たむろして、そのまま宿陣ということになった。

 城内の一揆どもは、今夜限りと思えば屠殺場の羊のようなものだったが、ますます勇気を落とさず、夜が明けたら最後の手厳しい合戦をしようと心を決めていた。

 ここで、蘆塚が諸方の手配りをした。

 まず、中央は大将の天草四郎大夫時貞が天主でうすの旗を押し立て、その介添えは天草甚兵衛、天草玄察、有馬休意ら。

 本丸の一の城戸きどを守るのは、大矢野作左衛門を大将として、千束、内崎、毛利、池田、鹿子木ら。

 搦手からめてを守るのは、駒木根八兵衛、蘆塚忠大夫、蘆塚左内、時枝、柏瀬、佐志木の面々。

 このように決め、そのほか、狭間や塀際には一揆二千人余りが手ごろな石、材木、鍋、釜、諸道具など、飛礫つぶてになりそうな物を置いておいた。

 妻子らは小笠原勢のために滅亡させられていたので、もはや何もこの世に思い残すことはないと、一同、死を覚悟し、天主でうすの旗を押し立てて戦いの時を待った。

 最大の秘計は、荒神ヶ洞の桧山の中に屈強な一揆どもを選んで伏兵とし、合図があり次第一斉に討って出て勝負を決しようということであった。

 もともと落城は予想していたことだったので、心静かに用意して夜が明けるのを待った。


61. 原の城手詰めの戦働きの事

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