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天草騒動 「62. 細川家手楯の事」

 さて、細川越中守殿は老巧の良将であったので、「黒田家の勢に負けるな。賊城はこの一戦で落ちるに違いないぞ。かかれ、かかれ。」と兵士に下知し、稲麻とうま竹葦ちくいのごとく取り囲んだ。

 この城戸きど口は、鉄砲の達人の駒木根八兵衛の持場であった。

 前もって最期さいごの戦いと心を決めて準備していたので、一間当たり五六挺づつ鉄砲を配置し、それぞれに弾薬係の者が付き添って詰め替えなどの手際も良く矢継ぎ早に撃ち出したため、寄せ手では手負いや討死が百人余りに及んだ。

 城内から撃ちかける玉は雨のようであったが、長岡監物、長岡帯刀、有吉、松井らの面々は、石垣の下に隠れて矢玉をしのぎ、どこかから登ろうとしていた。しかし、再び城内から鍋釜やその他の道具類を投げ落としたので、難儀してしばらく登るのをためらっていた。

 越中守殿はそれをご覧になって、前もって用意していた大楯三枚を陣の前に押し立てた。

 この楯は牛の襟皮七枚を張り合わせたもので、最も堅固な製法でつくられた物であった。したがって目方も重かったので、細川の家中で大力の聞こえが高い勇士の、布施宗兵衛、神谷図書、堀田内蔵助という者どもを選び、三人で並んで楯を押し立てさせた。そして、その後ろで越中守殿が床几に腰掛けられ、九曜の紋の旗を翻していた。

 駒木根八兵衛がそれを見て、「さては越中守殿であろう。」と思って、鉄砲をかまえて強薬つよぐすりで発射した。玉は大楯に命中したものの、貫通させることはできなかった。

 駒木根は、「これは残念」と工夫をこらし、十匁玉に紙を巻き、それを二つ詰めて撃った。前と同様に命中したが、今度も貫通せず、玉は楯の中にとどまった。しかし、強薬の二つ玉だったので当たりが強く、大力の布施宗兵衛も思わず楯を放してしまった。

 越中守殿はいつもは見たところそれほどの力はないようであったが、その楯を自分自身で引き起こして立てられたため、それを見た者は恐れ驚いた。

 そのうち再び城内から矢玉をはげしくうちかけたので、細川勢が馳せ集まって大将の矢面に立ちふさがり、大勢で一斉に、「昨年の冬以来、駒木根は鉄砲の名人と聞いてはいるが、元来百姓だから槍刀そうとうの術は知るまい。まことの武士と勝負はできまい。」と大声で呼ばわり、おおいに笑った。

 駒木根は細川家の悪口雑言を聞き、
「もはやこの城の滅亡は目前に迫って、どちらにしろ討死する命。今の雑言、聞き捨てならぬ。今さら鉄砲で二十人や三十人を撃ち殺しても何の意味もない。今を最期さいご晴軍はれいくさをせん。わしが討って出たあとは、城戸を閉じて守りを固めよ。」と蘆塚忠大夫に言い含めておいて、たった一人で城戸をさっと押し開き、城外に踊り出た。

 槍をかかえて、
「われこそは種ヶ島の住人、駒木根八兵衛なり。槍、太刀のわざもいささか心得ており申す。手並みのほどをご覧にいれよう。」と大音声で呼ばわって、岩かどを楯にして身構えた。
(原注:この駒木根八兵衛は飛騨国の駒木根と同族で、もとは武門の家に育ち、後にわけあって種ヶ島に住むようになった。一家は島津家に仕えていた。したがって、武芸の心得のある勇士であった)。

 細川家の先鋒として進んでいた兵士十人ばかりが、自分が討ち取ろうと取り囲んだが、駒木根は事ともせずに三人まで槍で突き落とした。その勢いは荒れ狂った猛虎そのものであった。

 長岡監物がそれを見て、味方が鉄砲を撃とうとするのを押しとどめ、「おのおの真剣の勝負にせよ。」と下知したので、細川勢が群がり立って駒木根に走り寄った。

 駒木根は、「我が太刀の技を見よ。」と言って、二尺四寸の藤島の刀を正面に振りかざし、急峻な坂の入口に仁王立ちになって、近寄る兵士をたちまち右ひだりに斬り伏せ斬り伏せ戦った。

 松平伊豆守殿の家老の深井藤右衛門は各所の戦いを検分してまわっていたが、このありさまを見て走ってきて、駒木根の太刀の下をかいくぐって組み打ちの勝負に出た。

 駒木根も、「心得たり」と深井の上帯を掴んで引き寄せ、お互いに坂の上に立とうと揉みあった。

 しかし、深井は大勇の者でしかも新手であるのに対して、駒木根は先刻からの戦いで五か所も深手を負って疲労していたため、とうとう倒れてしまった。そこに深井が乗りかかって駒木根の首を討ち取り、しずしずと引き上げて行った。

 この深井は、本渡の合戦の折に十七の首級をあげたほどの勇士であった。

 駒木根が討死した後は、城方には鉄砲の名人もいなくなったので、細川家の軍勢はますます勇気を増し、「進め、進め」と塀の下にひたひたとつめかけた。

 このようにして戦ううちに早くも巳の刻も過ぎ、正午近くになったが、いまだに本丸の塀の一重も破れず、永い春の日の二刻に及んでも落城せずに持ちこたえた。

 さて、鍋島甲斐守殿は出丸を一番に乗っ取られ、その後、二の城戸をも一番に踏み破り、少しも屈せずに今朝から戦って武勇をあらわされたので、城方でも特に鍋島家の攻め口を重要と考えて、一揆の者らが駆け集まって防戦していた。

 甲斐守殿があちこちを窺って見ると、城兵が鍋島家の軍勢と戦っているうちに細川侯や黒田侯をはじめとして諸家の大軍が詰めかけて、足を踏み入れる隙間もないありさまだった。

 そこで、人のいない場所を探して、西の山沿いの樹木が生い茂っている細道を、指物を伏せてたった一騎で本丸の台にお上がりになった。一揆らはこのことにまったく気付かず、全員雁木がんぎの登り口に集まって必死に戦っていた。

 その時、甲斐守が小旗を差し上げて、「本丸の一番乗り、鍋島甲斐守なりっ。以後、一番乗りについて論ずるなかれ。」と大音声で呼ばわり、得意の鎌槍を振るって城兵を後方から薙ぎ立てた。

 柏瀬茂左衛門、時枝隼人ら一同はおおいに驚き、「それっ、一生の大事は今だ。本当に、寄せ手の中で去年以来この人には最も遺恨が深い。」と言って駆け集まり、左右から槍を振るって突きかかった。

 甲斐守殿はそれをきっと見据えて、隼人の槍をはね上げるやいなや、槍を投げ捨て太刀を抜き、「観念しろ。」と駆け寄って、正面からはっしと斬りつけた。

 隼人もこころえて、槍を投げ捨て太刀を抜いて戦ったが、隼人は太刀を受け損ない、眉間をしたたかに斬り付けられてどうっと倒れた。

 そこに、柏瀬茂左衛門が横合いから抜打ちに斬りつけたが、甲斐守殿は咄嗟にかわして、袈裟掛けに頭から首にかけて斬り捨てた。

 一揆どもはそれを見て、目前の敵は放っておいて、四五百人で甲斐守殿を取り囲み、「自分が討ち取ってやる」と競ってかかって行った。

 甲斐守殿はそれをことともせずにますます猛勇をふるい、正面から来る者は拝み討ち、左右にいる者は車斬り、宙を払えば身を沈め、裾を薙げば飛び上がり、前にいるかと思うと背後におり、陽炎、稲妻、水の月影、姿ばかりは見えるものの、打ち合うことさえできなかったので、人々はあきれて立ちつくした。その時、怪しいことに甲斐守殿の後ろに墨絵のような女の姿が現れたので、例の乳母の霊魂が影身に寄り添って守護していることがわかった。

 父の信濃守殿は遥かにこれを見て、「あれを討たすなっ」と下知したので、全軍が一斉に押し登り、我劣らじと突っ込んだ。その勢いは大きな山も崩れるかと思われるようなありさまであった。

 一揆らはほとんどが鎧を着けておらず、そのうえ飢え疲れていたので、屈強な兵士と戦ってかなうはずもなく、四五百人の者が微塵に討ち果たされた。

 この戦いの最中に、蘆塚が前もって決めていたように、大将の旗を守るために本丸の中央に天草玄察、蘆塚忠大夫、蘆塚左内を残し、渡邊四郎大夫をはじめとして蘆塚忠右衛門、大矢野作左衛門、天草甚兵衛、田崎刑部、鹿子木左京、池田清左衛門、佐志木佐治右衛門らを中心に百五十人の者が詰めの城の荒神ヶ洞に隠れ、寄せ手の大将と最期の戦をしようと静まり返って潜んだ。

 寄せ手はこのようなことはまったく知らず、鍋島家は早くも一番乗りしたぞ、遅れるなと言って、大手と搦手の大軍が虎口を破り、一斉に潮が湧くように押し登った。

 蘆塚と大矢野はそこにおらず、ただ一人も手強い抵抗をする者がなかったため、小屋に火をかけ、煙りの内に一揆の者らを七百人余り、一人も残さず討ち取った。

 なおも旗本勢を取り囲んで揉み立てたので、天草玄察、蘆塚忠大夫、蘆塚左内、有馬久兵衛の四人も、ついにかなわず全員討死した。

 本丸がすでに落ちたので、一揆の者らの屍をことごとく山の下に投げ落とし、討ち取った首は本陣に送った。

 麓では、松平伊豆守殿と戸田左門殿が馬印を雲霞のごとく立て連ね、全軍が城下に充満していた。

 諸将が次々と詰めの城に登ってそこのありさまを見てみると、そこには人影もなく、とても綺麗に掃除がしてあった。二十間余りの岩石の間を流れる水は清く澄んでいて、樹木は枝を交えて繁茂し、まるで別世界の仙境に入ったような心地がした。

 全員がこの場所に集まって、まず勝鬨かちどきをあげ、芝の上に床几しょうぎや敷き皮を並べて諸将の手柄について論じあっていたのは、まことに危うい状況であった。

 その時、北條安房守殿があちこち馬を乗り回してみると、不思議と桧山の林の中から一陣の殺気が立ち昇っていたので、

「これは理解し難い。去年から籠城し続けたほどの者が、滅亡に臨んで詰めの城に一人もいないだけでなく、今、林の中から殺気が立ち昇っているのは、きっとあそこに伏兵がいるに違いない。おのおの用心するように。とりあえず、この場所の人々を分散させ、それぞれ警戒を怠らないようにせよ。」と、しきりに下知した。

 いやいやながら少し分散したものの、人々は、
「不思議なこともあるものだ。征討使が前から臆病神にとりつかれて引込み思案になっていたのに、そのうえまたもや安房守殿までこの臆病はいったいどうしたことだ。勝って兜の緒を締めろという諺はあるが、今まさに落城して一揆の者らが残らず滅亡したからには、焼鳥に尻尾というか石橋をたたいて渡るというか、ああ、面倒なことを言われるものだ」と言って、いっこうに用心する様子はなかった。

 この時、鍋島甲斐守殿は詰めの城に登らず、しばらくして馬廻りの者を二百人ほど引き連れ、自分自身も槍を引っ提げて、備えを整えていざという時に戦おうと覚悟し、他の人々から離れて控えていた。これは、以前千々輪五郎左衛門が密かに告げたことを心に秘めていたからである。 


63. 長岡帯刀、大矢野作左衛門を討ち取る事

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