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天草騒動 「11. 市橋島田両人の奇術を上覧の事」

 時に天正十六年九月、秀吉公は伏見の城に在城されていた。

 その頃、堺の町人の天王寺屋宗珍と近江屋常祐という者は茶の湯を好んでいたので、たびたび秀吉公に召された。今日も御機嫌伺いとして参上して御前に召し出されていた。

 さまざまな話しのついでに秀吉公が、堺のあたりで何か面白い事はないかと御尋ねになった。

 両人はそれに答えて、
「特に変わったことは承っておりません。しかしながら、夷町中の浜というところの市橋庄助という外科医師と港町の島田清安という医者は、さまざまな手品を行います。今評判なのはこれくらいです。」と、申し上げた。

 秀吉公はそれをお聞きになって、「それは珍しい。是非とも見たいものだ。」と仰せになった。そして、佐々木平右衛門に申し付けて堺へ使いを送り、その両人を呼び寄せられた。

 その翌日、両人が召されて登城したところ、御前の傍らには奉行、役人をはじめとして御近習や大奥の女房たちにいたるまで居並んでいた。

 秀吉公が、「その方どもは不思議な術を習得していると聞き及んでいる。何か珍しいわざを見せよ。」と、仰せになった。

 両人は謹んで、「かしこまりました」と言い、大鉢に水を入れさせ、紙を菱形に切ってその鉢に入れた。すると、紙はたちまち鯉、鮒、その他さまざまな魚に変わって、それらが水中を泳ぐ様子は本物の魚と区別がつかなかった。しばらくするともとの紙に戻ったため、人々は奇異なことだと思って呆然としていた。

 また何かやってみよ、との上意があったので、今度は紙縒こよりを一本取り出して、「どなたも驚かれなさるな」と言って何やら呪文を唱え、畳の上に投げ出すと、大きな蛇になって這い回った。

 見物していた女中どもがおおいに驚いて逃げ出したため、「早くしまえ」との仰せが有った。手を叩くと、再び元の紙縒りに戻った。

 また、台所から卵を取り寄せててのひらに乗せ、口に呪文を唱えて畳の上に置くとたちまち雛鳥に変わり、見る間に大きな鶏になってはばたいてときの声をあげた。しばらくすると元の卵に戻った。

 「この上はなんなりと好きなことをお申し付けください」と申し上げたので、秀吉公はおもしろがって、「女ども、なんでも言ってみよ」と、仰せになった。

 「富士の山をここに移して見せてほしい」と言うと、両人は、「大きなものは御座敷の中では無理です。御庭にお造りしましょう」と言って、障子の外にでて呪文を唱えた。すると御庭の風景が変わって富士山が現れた。皆、見て描いたものよりも見事だと感心した。また障子を閉めて呪文を唱えると、もとどおりの御庭に戻った。

 また、近江八景を出現させたり、叡山、三井寺、膳所の城、堅田、比良、唐崎などをことごとく出現させた。その他、須磨・明石などさまざまな景色を出して御覧に入れたので、秀吉公をはじめ誰もが珍しいことと驚き感じ入った。

 秀吉公が、「幽霊というものがあると聞くが見たことがない。これも出せるか」と御尋ねになると、両人は、「かしこまりました。しかしながら幽霊は昼間に出ることはありません。夜のものなのでそれは日中にはできません。夜になってから御覧に入れましょう」と、申し上げた。

 それでは休息せよと、御料理や御酒等を賜った。

 じきに日も暮れたので、蝋燭をたくさん灯して白昼のようにしてあったところ、両人は、「このように灯火がたくさんともっていてはできません。すべてお消しください」と言って皆消させた。

 外には十八夜の月が明るく昇っていたが、両人が障子の外に出てしばらくして障子を開くと、今まで光り輝いていた月も曇り、風が吹いてきて、何やら気味の悪い様子になった。

 やがて庭のしげみから白いものを着て青ざめた顔の幽霊が、顔をおおって泣きながら現れた。そのありさまは身の毛がよだつほど気味悪いものであった。

 女中たちはおおいに恐れ、「これはまた厭な御望みを申し付けたもの」と身をすくめて奥に逃げて行くものもあった。

 幽霊は次第に近付いて来て縁側の先まで寄ってきたため、月は曇っているもののはっきりとその姿が見えるようになった。

 秀吉公はこれをとくと御覧になって、「はやく消せ」と仰せになった。両人が障子を閉じて呪文を唱えると幽霊はたちまち消え失せ、空も晴れてもとの月夜になった。まことに怪しむべき術であった。

 さて、両人は御望みどおり御覧に入れたので、きっと御褒美をいただいて今後も城に出入りできるようになり、諸侯に近付いて例の宗旨を広められると思っていたが、秀吉公は、「両人を召し捕り、きびしく禁獄せよ」と近臣にお命じになった。

 近臣たちは合点がいかなかったが、上意なので言われたとおりに手下の武士に下知し、両人が驚いているところを高手小手にきびしく縛り上げて牢に入れた。

 こうして両人は、妖術を使うひまもなく、おめおめと捕まってしまった。

 秀吉公は、
「かの両人は、手品師などというものではなく、切支丹宗の残党であろう。わしは、彼らが最初からあまりに不思議なことをするのでわざと幽霊を所望したのだ。

「わしがまだ微賎の頃、摂州で寵愛していた菊という女が暇を乞うので縁を切ったのだが、その後播州を領して筑前守になった時に訪ねて来て、元のように仕えたいと言ってきたことがあった。しかし、一旦暇を与えた女を召し使うわけにはいかないと言って取り上げなかった。ところが露命をつなぐことができないとひどく嘆くので、不憫に思って別所小三郎の娘の白瀧姫にあずけておいた。すると、わしが白瀧を寵愛しているのを妬んで、毒を用いて大勢に害を及ぼした。婦人ではあっても重罪人なので獄門にかけて晒したことがあった。

「わしが藤吉郎であった頃に愛した女であることは汝らでも知るまいに、菊のことを邪術を用いて探り、その幽霊を見せてわしに取り入ろうとしたに違いない。拷問に掛けて仲間を白状させよ。」と、お命じになった。

 そこで両人を厳しく拷問に掛けたが、仲間のことは一向に白状しなかった。しかし、吟味の末、とうとう切支丹の法に相違無いことを白状し、天正十六年九月二十九日、粟田口ではりつけに処せられた。

 再び国々で切支丹宗の者の取締りがあり、多数の者が処刑されることとなった。


12. 切支丹宗門きびしく御制禁の事

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