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天草騒動 「16. 天草島諸浪人の由来の事」

 さて、また同じ島の中に赤星宗範そうはんというはり医者がいた。身の丈五尺三寸、顔色白く蒼髭あおひげがあって人品骨柄人にすぐれており、総髪でいかにも名医のように見えたが、実は治療はへたくそであった。はなはだ生活が苦しかったので糊細工を渡世の助けとしていた。

 また、天草大矢野村に作左衛門という者がおり、剣術兵法を指南して独身で暮らしていた。

 頃は寛永八年五月五日、天草の侍たちが天草甚兵衛の家に節句の礼に集まった。

 この甚兵衛というのはもと芸州中村の城主、阿曽根中務少輔という者がわけあって断絶し、その子孫がこの島にやって来て住みついたもので、当時で五代目の子孫であった。家柄のよい浪人だったので人々が尊敬し、姓を天草と称していた。

 甚兵衛はもともと農業を嫌って武術を好み、作左衛門の門弟になって学んでいた。武術の修練ばかりに励んで身持ちが悪かったため、田畑をだんだんと売り尽くして貧しくなっていたが、なにぶん家柄がよいので妹婿の島原領原村の大庄官、渡邊小左衛門(この小左衛門はのちに一揆の大将になる渡邊四郎大夫時貞の父である)から援助を受けて、伯父の玄察と一緒に夫婦三人で暮らしていた。

 大矢野作左衛門が天草甚兵衛に節句の挨拶を述べて帰ろうとしたのを甚兵衛が、「ちょっと待ってください」と止めて、「たった今お招きしようとしていたところをお越しくださって幸いです。今日、渡邊のところから酒肴が届いたので、粗酒をお振舞いしようと思います。ほかの人達も招いてあるのでそのうち集まることでしょう」と、言った。

 作左衛門が、「それはありがたい」と座敷へ通ると、しばらくして蘆塚あしづか忠右衛門、千々輪五郎左衛門が連れだって入って来た。

 主人の甚兵衛と伯父の玄察が酒を出してさまざまにもてなしていると、誰かが、「赤星はどうして来ないのか」と、言い出した。

 甚兵衛は、「宗範は、用事があって来られないと断ってきました」と、答えた。

 集まった人々は、「赤星はすぐれた武士で器量もありながら、時にめぐまれずにいるのは泥中の玉のようだ」と、語り合った。

 中途半端に酔いが回った時は仲間を誘いたがるのが常なので、玄察が、「今日赤星が来ないのは残念の至り。これからみんなで宗範のところに行って恨み言を述べて来よう」と、言いだした。

 皆、酒で機嫌がよくなっていたので、「そうしよう」と言って、連れだって赤星の家に押しかけた。

 全員懇意の仲なので、甚兵衛が先に立って挨拶もせずに赤星の家に上がり込み、「今日は粗酒が手に入ったので誘ったのに、来てくれないのは残念至極。どうして来てくれないのか尋ねるために推参いたした」と言って、座に着いた。

 宗範は、「これはおそろいでようこそいらっしゃった」と挨拶をしたが、座に着いた皆があたりを見ると、仏壇を飾り、法名ほうみょうを書き記し、のぼりを台に載せて供えてあった。

 赤星が言うには、「御覧のように心ばかりの法事を営んでいたので、残念だがお断りしたのだ」ということだった。

 玄察がそれを聞いて、

「今日は五月五日で、男子が皆、幟や飾り兜を飾る習慣です。それに対して、香や花を霊前に置き、幟を供えて弔っているのは、きっと御子息の追善であろう。まことに親子の恩愛は深いもので、勇気たくましい赤星氏が幟まで手向けられているのは、かの伯居易がわが子に先立たれて思いの火を胸に燃やし、枕もとに残った薬を恨んだことのようで、もっともなこと。しかし、そうは言っても親が子を弔うのは逆縁というもの、どうか一献受けてくだされ」と、酒を勧めた。

 その時、蘆塚が仏壇を見ると、戒名に「童子」とも「童女」とも書かれておらず、「何々大居士」と書いてあったので、「さては子供ではないようだが、幟を供えてあるのはどんな理由か」と不審に思って尋ねた。

 すると、宗範は涙を浮かべて、

「ご不審はごもっとも。御懇意の仲なので隠さずお話致そう。拙者の祖父は、赤星主膳といって岐阜黄門秀信の家臣であったが、君を諌めて切腹して果てたのをかえって不忠と言われて、父内膳は暇を申し渡され、それから大阪に入城して、夏冬二度の合戦に勇をふるい、なんとしても徳川御父子を討とうと付け狙ったもののとうとう近寄れず、元和元年五月六日、大阪落城の折りに君臣みな滅亡してしまった。

今は徳川家の威勢が強くなって、かつて敵対したものを根絶やしにしようとしているので、私もこの土地に身を隠して年月を送っていたのです。明日はその年回で、せめて旗印であった幟を手向けようと遺憾の弔いに心ばかりの追善供養をしていたのです。浪人の身の上を御推量くだされ」と、涙と共に語った。

 それを聞いて、皆、たのもしい御心底と感心し合った。

 やがて、千々輪五郎左衛門が進み出て、

「さては貴殿も大阪方のゆかりの方か。それがしの父五郎左衛門は、加藤清正公に仕えて朝鮮まで渡り、武勇をあらわして二千石を領しておりました。ところが主君清正公が病死されて、子息の忠広が家督を継いだものの、父とは違って愚将だったので関東方にあざむかれて太閤の御恩を忘れ、関東に味方して大阪を棄ててしまいました。

父はさまざまに諌言しましたが用いられず、とうとう忠広を見限ってしまいました。そして、先君の志を察して大阪に入城し、冬の陣の際に深入りして討死して果てました。

それがしは肥後の国、八代の城下、法華寺に蟄居して現在この地に住んでいますが、加藤の浪人とだけ言って大阪でのことは隠していたのです。しかし、赤星殿の身の上を聞いて思わず打ち明けてしまった。」と、語った。

 蘆塚はそれを聞いて、

「このように顔を揃えて集まったのは同気相求むという格言のとおりです。それがしも小西行長の家臣だったのです。

慶長五年、石田三成と申し合わせて家康公を滅ぼそうと企てたものの、天運時至らず味方は敗北してちりぢりになってしまいました。主人は、それがしと森宗意軒を呼んで、『このたびの敗戦の無念は骨髄に徹して忘れ難い。汝らは生きながらえて時節を待ち、わしの無念を晴らしてくれ』との遺言を残しました。

是非とも冥途の供をさせてほしいと願いましたが聞き入れていただけず、辞退するのはかえって不忠であるとお叱りになるので、その後は仕方なく両人とも身をやつして時を窺い名を変えて大阪に入城しました。必死になって戦ったものの、大阪方の運が尽きて名のある人々も次々と討ち死にしていき、落城が間近に迫ったとき、宗意軒とそれがしとで城を脱出しました。

もともと雑兵の身分で入り込んだので、知る人もないのを幸いにこの土地に忍んで来て、主人の本意を遂げるためにさまざまに心をつくしましたが、次第に徳川の勢いが強くなって、三代にわたって天下がよく治まり、諸侯も太平安楽を喜ぶばかりで義勇をふるう人もいないので力及ばず、なんとかして主人の遺命を継いで志を遂げようと昼夜心をくだいても良い手段もなく、きのうきょうと歳月を送っていたところでした。

ところが、懇意にしている皆が宗範殿のお話をきっかけとして名のり合ってみれば、皆大阪方の残党で、このように朋友が集まったのも時が至って埋もれ木に花の咲くこともあるのかもしれません。不思議な縁で本当のことを打ち明け合えたのはまことにうれしいことです」と、言った。

 その時、横の方から大矢野作左衛門が手を打って喜んで、

「惜しいかな忠臣義士。それがしは代々本多家に仕えてきた家の者で、父の作左衛門は大阪の合戦の時に本多出雲守の馬前で武勇をふるって御宿みしゅく越前守に討たれました。

それがしは主君の意にかなわず、知行を削られてまったく家中で用いられず、それでいささか不平を言い立てて退去したところ主人が立腹し、彼は父祖の武功を鼻にかけて主人をないがしろにする不忠者である、と言って諸国に追手を差し向けました。

奈良で追手に出会いましたが三人を切り倒して逃げのび、この天草島に来たところ、さいわい大矢野という村がありました。これは私の先祖以来の苗字と同じ名前なので、これこそ一生住むべき土地であると考えて名を作左衛門と改めたのです」と、委細を語った。

 さて、この時この浪士どもがそれぞれの心中を明かし合い、その後どのような手段でついに一揆四万余人を集めて謀反をなし、天下の騒動を引き起こしたかについて、これから説きおこそう。


17. 天草玄察表具を仕立てる事

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