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天草騒動 「14. 板倉伊賀守殿の賢明なる成敗の事」

 京都所司代板倉伊賀守殿は当代の名士で、身分の上下を問わずその徳を賞賛していた。このたびの修験者萬海の雨乞いの一件については洛中洛外にその噂が広まっていたので、怪しい者と考えて召し捕って吟味にかけることになった。

 伊賀守殿が、「雨乞いの法と偽って人々をたぶらかすとは不届きである。」とお叱りになったところ、萬海は、「私は人をたぶらかしたりなどしておりません。村々から頼まれたので雨乞いをおこなったのです。」と、答えた。

 板倉殿が、「汝はいずれの門葉か。」と仰せになると、萬海は、「私は聖護院しょうごいん派で、清瀧きよたきに住む千寿院萬海と申すものでございます。」と言った。

 そこで聖護院宮しょうごいんのみやにお問い合わせになったが、そのような門末は無いとのお答えだったので、ますます怪しい者であることがわかった。

 板倉殿が、
「その方がさまざまな不思議なことを行うのは、すべて妖術であろう。このたびの雨乞いで火中に入ったのも幻術に違いあるまい。ありていに白状致せ。」と仰せになった。

 すると萬海は、
「この儀は神道で宇津室うつむろという法で、火に入っても焼かれず、水に入ってもおぼれず、なかなか凡俗の及ぶところではありません。」と、弁舌をもって言い逃れようとした。

 板倉殿は笑って、

「宇津室のことを知らないとでも思ったのか。これは、此花咲耶姫このはなさくやひめが帝のお疑いを晴らすために火の中に入ろうとしたので、帝がその真心にうたれてとどめたもうたものだ。本当に火に入られたのではない。その後、皇子が御誕生になった。この時はまさしく神体を孕んでおられたのだから、たとえ本当に火に入られたとしても焼かれはしなかったであろう。

それなのに、末世凡夫の汝のような修験者が神体の真似をしようなどとはもったいない次第である。そもそも火は五行陽徳を具えて、熱きをもって神道となす。火中に入って焼け焦げないなら火徳の位は無いであろう。妖術で人の目をくらまし、邪法で人を愚弄しようとすることから推量して、まさしく切支丹宗の残党であろう。」と、みごとに言い当てて睨み付けた。

 萬海はハッとうつむいて一言半句も返答できなかった。

 板倉殿が思案して、先年切支丹宗を禁制にした時に関係した役人、年寄、隠居などを召して彼らに萬海を見せたところ、その中に彼を知っている者がいて、「彼は南蛮寺でヒヤンと呼ばれていた者です。」と、言った。やはりそうであったかと、入牢を仰せ付けられた。

 厳しく拷問して、同類を白状させようとさまざまに責めたので、「私は切支丹宗に相違ありません。けれど、御禁制が厳しいので仲間は一人もございません。」と、白状した。

 しかし、このようなことを企てたからにはきっと一味の者がいるに違いないと、さらにさまざまな拷問にかけた。

 そのうち、幻術で苦しみを逃れ、機会を見て逃亡しようと企てたが、さすがに厳しく縛り上げてあったのでうまくはいかなかった。

 どんなに拷問しても仲間のことは白状しないので、余類の詮議はあとで行うことにして、まず千寿院を処刑することになり、粟田口で磔にすることに決まった。

 町中を引き回して処刑場に到着したが、柵の内も外も厳重に警戒していた上、千寿院は衰弱した様子で、ものも言わずに打ち萎れていた。

 人々は皆、この期におよんで幻術は使うまいと思って、馬から下ろしてはりつけ柱に縛り付けようとした。すると突然千寿院が鼠の姿に変わってあたりを駆け回り始めた。

 役人は周章狼狽して叩き殺せと騒ぎ立てたが、そこに空から鳶が舞い降りてきて、その鼠をつかんで雲の彼方に飛び去って行ってしまった。

 役人どもは茫然として為す術もなく、事の次第を板倉殿に報告したところ、不調法に取り逃がしはしたがいったんは召し捕ったのだからこの件は鎮静化するであろう、私に考えがあるからこのことに関しては特に処罰しない、と仰せになった。

 役人どもは、千寿院を取り逃がしたことをとがめられなかったので板倉殿の御仁心に感謝したということである。

 そのうち、密かに耶蘇宗を信じる者がいまだにいることを板倉殿が探り出し、空転そらころびした者を策略でもって召し捕った。

 それらの者を俵に詰めて首だけを出し、四条五条の河原に積み重ねて放置したので、そのあたりに市をなして見物人が集まった。この空転びというのは、耶蘇宗の者が御制禁を恐れておもてむきだけ改宗したものをいう。

 さて、切支丹宗の者どもは朝から正午頃までは皆「善主麿ぜんしゅまろ善主麿ぜんしゅまろ」と唱えていたが、中には、「さても有難いことだ。このような難にあっても天帝が授けてくださった呪文を唱えさえすれば空腹にもならない。早く殺してもらいたいものだ。そうすれば天に住むことができるのだから」などとつぶやく者もいた。

 しかし、昼過ぎになるとだんだん空腹になってきて、一人が、

「このような時には天帝から百味を賜ることができ、また、難に遭う時は天上に引き上げてもらえると聞いていたけれど、いまだに煎餅一枚くれる者もいない。ゆうべものを食ったきりなので目がまわる。」と、言いだした。

 そのうち、「空腹で耐え難い。もう義理はいらない。本当に転ぼう。」と、皆口々に言い始めた。

 役人は、こんなこともあろうと考えていたので、町々に申し付けて請人うけにんに証文を出させ、残らず赦免して俵から出してそれぞれの家に帰してやった。

 これは、愚昧な者がたぶらかされて邪宗門に引き入れられ、虚言を真実と思い込んでいたのが不憫だったためである。

 その後もたびたび空転び者がみつかったので、日本国中津々浦々、山奥や孤島に至るまで、今日産まれた赤ん坊までも、檀家になっている寺から切支丹宗でないことを示す証文を出させて、町人は年寄月行事から、百姓は庄屋から宗門改めを毎年公儀に提出させた。もちろん武家も同様であった。

 そのほか、諸国の各所に厳しく御制禁との高札を立てた。また、毎年七月のたま祭りのおりに檀那寺から僧が棚経たなきょうに来るのは、切支丹宗の気配がないかどうかを吟味するためである。

 しかし、一旦おおいに広まったことでもあり、また、どのように御吟味があっても悪に傾きやすいのが人の心であって、なかなか切支丹宗の者はなくならなかった。

 そこで十人二十人づつその宗旨を信じる者を摘発してはりつけや火あぶりにしたため、しばらくは耶蘇の風聞もなくなって穏やかになった。

 しかし、遠国や僻地では密かにこれを学ぶ者がなくならなかったので、諸侯も吟味を厳重にし、その結果大勢が宗門に引き入れられることはなくなった。


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