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天草騒動 「13. 千寿院、京都にて召し捕られる事」

 さて、耶蘇宗門が厳しく御制禁されたため、しばらくのあいだ諸国は穏やかであったが、元和元年の浪速の合戦も終わって天下一統太平の世になったので、討死した者の仏事供養の機会をとらえて、またも例の千寿院が大和河内のあたりを徘徊し始めた。

 この頃はひどい旱魃かんばつで一滴も雨が降らず、人民が嘆き憂い、さまざまに雨乞いをしていた。

 千寿院は今こそ不思議を現して人々を耶蘇宗に引き入れようと、この機会を喜び、まず近所に赴いて八瀬小原のあたりの民家に立ち寄り、

「世上の話によると、この旱魃ではさぞかし難儀なさっていることでしょう。拙者は大仏前に住んでいる千寿院萬海法印です。村々の御難儀を気の毒に思って参りました。あと五六日も日照りが続いたら田も畑も枯れ尽くしてしまうでしょう。これまでにも心をこめて雨乞いをされているようですが、なかなか普通の方法では雨は降りそうにありません。拙者の奇術でたちどころに雨を降らせ五穀豊饒をもたらしてみせましょう。‥‥と言ってみたところで理解し難いことでしょう。お望みならば不思議を現出させてみせましょう。」と言うと、数珠を大きな音をたててザラザラと揉み、口に呪文を唱えながらそばで燃えていた炭火を三つ四つ取って掌に載せて言った。

「皆さん、御覧なさい。火は水をもって制し、水は火をもって制す。月は水、日は火です。陰の姿をもって燃える火を手に取る、これが雨乞いのしるしです。」と、言った。

 そこにいた人々は大いに驚き、これは不思議と口々に言った。騒ぎを聞き付けて集まって来た人々も奇異なことと思って驚いて見ていた。

 千寿院は、「私は明王の法を修得しており、火に入っても熱くなく、水に入っても溺れません。日乞い雨乞い思いのままです。今の名僧貴僧が集まってどんなに祈ってもなかなかうまくはいかないでしょう。」と、言った。

 庄屋や年寄りどもが相談して雨乞いを頼んだので、千寿院は承知して八瀬の内に場所を選び、二丈四方の角に竹を立てて注連縄しめなわを張り、三尺ほどの高さに白砂を盛って、炭十俵をおこして雨乞いの用意をした。珍しい雨乞いだと老若男女が大勢見物に集まった。

 千寿院は白無垢にたすきをして御幣を手に持ち、燃え盛る火炎の前に立って、話し始めた。

「そもそもこの行法は神道に由来する。此花このはな咲耶姫さくやひめが御懐胎の時、帝が疑い給うて朕のたねではあるまいと宣ったので、姫君が悲しんで疑いを晴らそうと申し立てたところ、帝はますますお怒りになった。

姫君はひどく嘆き悲しまれ、私が他の男にまみえてけがれた身なら焼け死ぬでしょう、また、他の男にまみえていないことを天道が御照覧になっていれば、たとえ猛火に入っても私の身も平気で太子も無事に産まれることでしょうと、柴を積み上げ火をかけて火炎の中に躍り入って焼かれ給うた。

不思議にも御身は無事でいらっしゃったので帝の疑いも晴れ、ほどなく皇太子が御誕生になったということである。この太子を火々出見ほほでみみことという。この法は、宇津室うつむろと名付けられた。

仏道では、鎌倉将軍頼家公の時代、法然上人の弟子で東阿弥とうあみというものが念仏を広めたところ、頼家公はこれを馬鹿にして笑って、念仏の僧は見つけ次第、袈裟と衣をはぎ取って焼き棄てよとお命じになった。

そこで東阿弥を捕らえ、袈裟衣をはぎ取って、火を起こして焼いたところ、僧は少しも騒がず数珠を繰り、ただ一心に南無阿弥陀仏と唱えた。不思議にもこの袈裟は火の中にあっても焼けず、役人達は腹をたてて火箸で押えて煽ぎ立てたけれども少しも焼けなかったので、人々は奇異の思いをなしてこの趣を言上した。頼家公も念仏の徳に感じ入ったということである。

その後、永享年中、日蓮上人が法華宗を広め給い、立正安国論一巻を著わし、将軍に提出して諌言した。足利将軍義教公は大いに怒り給い、日蓮上人を禁獄するよう申し付けられ、拷問してさまざまに責苦を与えた。

その際、火で焚くこと三時みときあまりに及んでも題目を唱えて少しも苦しむ様子が無く、身も爛れなかった。そこで鍋をよく焼いて上人の頭にかぶらせた。上人は少しも動ぜず題目を唱えていたが、頭も別段苦痛を受けている様子では無かった。この時から、日蓮上人のことは鍋被なべかぶり上人しょうにんとも呼ばれている(訳注 鍋被上人と呼ばれたのは、日蓮ではなくて日親)。これは、その徳がすぐれていたためである。

私もこれらの人々のように、このように起こり立った火の上に立ち、天を祈り陽を鎮め、たちどころに雨を降らして進ぜよう。」

 千寿院はこう言うと、数珠を押し揉んで何やら唱え、火炎が燃え盛る上に飛び上がり、あちらこちらと駆け回った。見物の人々は肝をつぶし、不思議なことと感心した。

 この雨乞いの噂は二三日前から洛中に広まっていたので、所司代の板倉伊賀守殿が怪しみ、
「今年の旱魃は名僧貴僧が力を尽くしたのにその効き目がない。それなのにまったく無名の修験者が雨乞いと言って奇異の術をなすとは理解し難い。役人ども、出かけて行って様子を見届け、もしも本当に火の上を歩くようなら引き立てて連れて参れ。」と、仰せになった。

 そこで、事前に捕り手の役人たちが見物人に紛れ込んでいたが、そうとも知らずに萬海は、奇術を見せて諸人を手なずけ、宗門に入ることを勧めようと考えていたので、人々が恐れ入っている様子を見て、「してやったり」と笑みを浮かべていた。

 ところが、火の上から降りて来たところを役人どもが取り囲み、「動くな」と言って押さえ付け、縛り上げてしまった。思いがけないことなので見物の人々は四方に逃げ散って行った。

 召しとられた千寿院萬海は、「何の罪があってこんな目にあうのですか。人違いでございましょう。」と言い逃れようとしたが、役人は、「所司代の前で言い訳しろ。」と言って連行した。


14. 板倉伊賀守殿の賢明なる成敗の事

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