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天草騒動 「12. 切支丹宗門きびしく御制禁の事」

 慶長三年八月十八日、秀吉公は伏見にて薨御こうぎょされた。秀頼公が幼かったため、徳川内府公が天下の政道を御後見になって正し給うことになった。

 時に慶長十六年、肥後国では加藤肥後守清正が病死し、嫡子の虎之助忠広が家督を継いで七十三万石を領していた。しかし、忠広は生まれつき愚昧で、領地での政治が正しく行われていなかった。

 これ幸いと九州地方に法を広めまわっていた千寿院は、うわべは山伏と偽ってひそかに切支丹宗の修行をしていた。

 九州はもともと南蛮に近く、船も頻繁に行き来していたので何かと都合がよく、肥後肥前以外は切支丹宗に帰依する者が多かった。清正は武略に秀でていたので、清正が九州探題をしていた頃は彼の威に恐れて、清正の領国はもちろんのことそれ以外の土地でもこそこそと隠れ住んでいたが、清正の死後、遠慮もせずに切支丹宗を広め始めたのである。

 なかでも宇土郡深井村の者達は、切支丹の寺を建立しようとして、実光寺という禅宗寺院を打ち壊し、真道司という住持を追い出したので、住持が江戸に出てことの次第を訴えた。

 さっそく肥後の熊本に指図があって吟味することになったが、千寿院は九州を立ち退き中国に行って難を逃れた。

 宇土郡は加藤の藩士が厳しく取り締まったので、宗門のことは一応鎮まった。しかし、それはうわべばかりで、人々は内心では宗門を尊んでいたということである。

 この騒動の折、岡本大八という者が耶蘇宗の頭になって耶蘇宗を勧め歩いていたのを召し捕り、駿河中を引き回しのうえ阿倍川で処刑が行われた。

 諸国に切支丹御制禁の布告が出され、それからしばらくは国々は静謐であった。


13. 千寿院、京都にて召し捕られる事

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