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天草騒動 「35. 江戸表へ注進の事」

 さて、板倉殿をはじめとする軍監らが評議し、「この城の様子ではなかなか簡単には落とせそうにない。人数も足りない」ということになり、西国九州の軍勢をさらに集めることになった。

 また、江戸表には、注進の急使を櫛の歯を挽くように頻繁に送った。それだけでなく、長崎の警護がこころもとないので、大村因幡守殿、五島佐渡守殿、相良遠江守殿らに軍勢を出すことを命じた。さらに、松平大隅守殿は兵船を連ねて東の海上を守り、一揆のやからがもしも城を出て海上に乗り出すことがあったら討ち果たそうと待ちかまえていた。

 追討使の板倉殿は小高い山の上に旗を立てて本陣を構え、そこから段々に陣屋を建て連ねていた。軍監と諸方の監察や使番つかいばんは、軍法を守って戦いに備えていた。

 鍋島家の父子の軍勢は、出丸の攻め口から五町ほど離れた場所に幕を張りめぐらせて控えており、立花と有馬の両侯は大手に陣取って竹束の後ろに控えていた。

 寺澤と松倉の両家は一揆のきっかけを作った家なので、最も前方に陣取って城内からの出入りを防ぐことになった。

 諸軍へは、「大将の指図が無いうちは城攻めは固く禁ずる」と、申し渡した。

 そのうち板倉殿の注進が江戸表に着き、到着の旨を言上したので、諸役人が登城して評議をおこなった。

 使者が、原の城は堅固で鎧武者も多数たてこもっており、雑兵は二三万人いて鉄砲や長柄の槍をおびただしく用意していることや、最初の攻撃の失敗の経緯、鍋島甲斐守の勇猛抜群の働き等を詳しく言上すると、水戸光国公は、「かねての推量に違わず、これは由々しい一大事である。急いで大勢の討手を遣わすべきだ」とおおせになった。

 その儀ごもっともと、西海道に在城の諸大名はすぐに発向させ、在江戸の諸侯にはすぐにお暇を下されて国もとに帰らせるべきであるというのが御評議の結果であった。

 まことに、天下の一大事となってしまった。

 評議の結果、討手の人々としては細川越中守忠利殿と細川若狭守殿が総勢三万余人、秋月佐渡守殿と伊東出雲守殿の両家は合わせて八千五百余人、小笠原右近将監殿、小笠原内匠頭殿、小笠原備後守殿、小笠原壱岐守殿が総勢一万八千余人、ほかに松平市正いちのかみ殿、中川佐渡守殿、木下右衛門佐殿、毛利主膳正殿らが出陣することになった。

 軍勢の移動のために、西海道は上を下へとごったがえした。

 それぞれの軍勢には御使番つかいばん御監察おめつけが付けられ、数日で落城しない時はその都度注進するようにと命じられていた。

 さて、西国の大小名はことごとく原の城下に着陣し、板倉殿の采配にしたがった。

 また細川越中守の軍勢一万人余りは、船に乗って下深江村に着岸し、その船を使って城の東南の女子供がたてこもっている攻め口に大砲を据え付けた。

 黒田右衛門佐と嫡子の肥前守殿、それに同族の甲斐守殿、采女正うねめのかみ殿は、交代で陣を張るようにとの命令があり、また、立花左近将監殿と嫡子の飛騨守殿は中の手を攻めることになった。

 有馬家の軍勢は残らず城の水の手の、扇縄手の曲輪の付近に陣替えになった。

 鍋島家だけは最初と同じく出丸の攻め口を受け持った。

 その他の大将たちは旗本の前の広場二三町の中に陣取り、前後の軍勢を合わせると十六万三千人余りが、おのおの兜の星を輝かして稲麻竹葦とうまちくいのように水も洩らさず取り囲んだ。そのありさまは目を驚かせるものがあった。

 寄せ手の人々は、城内の百姓どもも、きっとこの勢いに恐れおののくだろうと思っていたが、城内では少しもひるむ様子はなく、旗や幟を押し立てて虎口を守り、敵が攻め寄せて来たら防ごうと静まり返って待ち受けていた。

 それぞれの軍勢が着陣したあと、大将たちがいくさ監察めつけと一緒に板倉殿の本陣に集まって、戦いの評定をおこなった。

 その席で有馬中務大輔殿が進み出て、

「そもそもこの城の一揆は百姓どもが企てたものです。浪人たちも混ざっているとはいえ、大将になれるような者はいないはずです。およそ兵法には五事七計というものがあり、それを知らなければ話しになりません。

第一、一揆の首領の四郎とかいう者は取るに足らない百姓の子です。こちらは数代に渡る旧家の武門で、天と地ほどの違いがあります。先日の最初の攻撃の際は味方は四万人余りの小勢でした。今度は十五万人余りの軍勢ですから、今晩不意に夜討ちして攻め寄せるのが良いと思います。」と申し出た。

 他の者もそれを聞いて、
「もっともな御意見だと思います。もし城方が固く守っていたらすぐに兵を引き上げましょう。また、夜戦ですから敵が討って出ることもなく、したがって味方が負ける心配もありません。」と、今にも夜討ちをかけることが決まりそうになった。

 この会合には諸家の家老や軍功をあげた者も参加していたが、その中の一人で末座に控えていた黒田頼母たのもという者が進み出て、

「おそれながら有馬侯の仰せのように、五事七計については一つも整っていない一揆ですが、城方に有利な点があります。

味方は名高い武門で、もしも百姓どもの一揆と戦って敗死したらひどい恥辱となりますから、進んで戦う心が自然となくなりがちです。また、一揆たちはただ一途に死を覚悟しているので、一人残らず殺し尽くさない限り落城しないでしょう。

およそ軍学でも古くから、一夫死を究むる時は万夫も当たるべからずといいます。もうしばらく戦いを仕掛けるのを待って、謀略で城内を油断させ、そのうえで城を落とす工夫をすべきだと思います。

また西国の諸侯方が残らず集まりながら、この城一つを落としかねて兵糧攻めをするのも残念です。かと言って正面から攻めれば三万人余りの一揆が要害にたてこもって死を覚悟して守っているのですから味方がひどい損害を受けるでしょう。したがって、御評議は十分慎重にしていただきたい。」と、言上した。

 この黒田頼母は黒田右衛門佐の三男で、同家の家老の黒田三左衛門の養子となって五万石を領していた者である。

 諸家の家老の長岡、仁木、三宅などが黒田頼母に同意したが、板倉殿はどちらとも決めかねている様子であった。

 有馬殿が再び、

「頼母の言うことにももっともな点はありますが、それがしは先に一度攻めたことがあるので城の守りがどの程度かわかっています。今度集まった新手の大軍が、戦いもしないうちから評定ばかりに時間を費やすのでは、あまりに引込み思案のように見えて天下に言い訳がたたず、人のそしりを受けてもしかたありません。今晩七つ半頃(訳注 午後五時頃)から夜討ちをかけて攻めたてれば必ず落城するでしょう。」と言った。

 若手の面々がこの意見に同意し、板倉殿も一日も早く攻め落としたかったのでそれに同意し、さっそく軍令を出して今晩の夕方から攻め寄せることに決定した。

 黒田頼母は、
「大将たちは無益なことをするものだ。夜討ちは小勢で大軍を討つときに用いる方法だ。軽々しく事を運ぶと、かえって敵に智恵をつけることになるだろう。」とつぶやいて、本陣に帰って行った。

 さて、寛永十四年十一月二十一日の夕方七つ半頃、十五万八千人余りが戦いの準備をして不意に出陣し、各軍勢が一斉に鬨の声をあげ、えいえいおうと言いながら楯をかざし竹束を連ねて城に押し寄せた。

 この原城は扇を広げたような形の芝山で、麓は広いが登るほど険しくなる地形である。

 寄せ手の黒田、立花、小笠原の三家の大軍七八千人が蟻が群がるように登って行くと、おりから冬の時雨空からにわかに風が吹き始め、あられ交じりに雨が降ってきた。

 芝原の道はなめらかで、足が滑って踏み締めることができず、諸軍勢は槍や薙刀を杖がわりについて、声をかけあいながら登って行った。

 先鋒の面々は鉄砲を撃ちかけようとしたが、雨がますます激しく降って火縄が消えてしまい、なかなか思うように撃てなかった。もたもたしているうちに早くも日が暮れてしまい、ただ騒がしいだけの城攻めであった。

 一揆方は少しも恐れず、山上には玉火、松明、提灯などを数千個点じて、白昼のような明るさだった。

 この原城は要害堅固で、そのうえ軍令もきびしく守られており、策略もいきとどき、このような風雨の折りに用いるために玉火というものをあらかじめ作ってあった。この玉火は、樟脳を臼でついたあと酒で練り、丸くして干し上げたもので、これに火を灯すと、どんな風雨の中でも消えることがないのである。

 また松明には桜の皮を用いているため、火もちがよくて、雨をはじいて濡れないので風雨の中でも消えない。火縄は、朝夕の猟に使う際のように雨覆いをかけてあったので、これも消える心配がなかった。

 城内では、好機を見計らって鬨の声をあげ、雷が落ちかかるように鉄砲を激しく撃ちかけ、いつものように大木や大石を間断なく投げ落としたので、寄せ手の軍勢はただ的になって討たれるだけで一向に進軍できなかった。


36. 鍋島甲斐守殿勇功の事

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