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天草騒動 「10. 南蛮寺破却の事」

 さて、中村修理の家で白翁居士と南蛮寺のヒヤンが宗論をし、ヒヤンは問い詰められて一言半句も答えることができずに逃げ帰った。

 修理父子はいうに及ばず、その座に集まった人々もこのことを評判し、それが世間の噂になったので、やがて豊臣秀吉公の耳にも入った。

 実際の話しを聞くために秀吉公は修理を召し出されてお尋ねになったので、修理はそのときの状況を詳細に言上した。

 秀吉公は五奉行を召され、

「せんだって南蛮寺宗門のことを徳善院が諌めたけれども、そのころは軍事に忙しくてそのままにしておいた。しかし、今、中村修理の話しを聞くと、これまでわが国に広まった仏法とは違い、宗門に入る者には金銀を与え、病人や貧民は寺に引き取って養育し、さまざまな不思議を見せたという。

ことに三世の鏡だと称して偽物をつくり、愚人を欺いて門徒に引き入れるというのは理解し難い布教の方法である。たとえ宗門に入ったからといって金を与えるべき謂れはない。寺で養っている者が数十人もいるというから、きっとおびただしい費用がかかるであろう。その出処も不審である。

余が推測するに、これはきっとわが国を乗っ取ろうという南蛮国の謀略に違いない。すみやかに寺を破却し、寺僧どもを南蛮国に送り返せ。」と命じられた。

 石田三成は島左近の勧めで切支丹宗を信仰していたため、なんとかして寺を残すように申し上げようと思ったが、秀吉公の御機嫌を損ねるのを恐れて何も言えずに控えていた。

 そのとき、浅野弾正少弼が、
「なるほど殿の御言葉には思い当たることがあります。なんとも不審な宗門です。まず召し捕って吟味し、謀計を企てていることがはっきりしたら、今後のみせしめのために処刑するようお命じになるべきです。」と申し上げた。

 秀吉公はそれを聞こし召し、

 「これまでにも唐土もろこしが日本を窺うことがたびたびあった。なかでも、人皇十九代亀山院の御宇ぎょう文永九年から蒙古が軍艦を送るという情報がたびたび入っていたので我が朝でもそれに対する準備をしていたところ、はたして二十代後宇多院の御宇ぎょう弘安二年、蒙古から十万の軍勢が数百艘の兵船に乗って雲霞のごとく九州の津々浦々に着船した。

西国九州の諸将がこれに挑み戦い、ついにわが国の軍勢が打ち勝って、異国の大将の阿呂志あろしという者を生け捕りにして鎌倉へ送った。

当時、鎌倉将軍は惟安これやす親王、執権は北條相模守時宗であった。時宗に処分が任せられ、時宗は由比ヵ浜に阿呂志を引き出して首をはねたので、残兵が逃げ帰ってこのことを報告した。

元の世祖はこれを聞いておおいに怒り、今度は七十万の大軍をおこして弘安四年に蒙古の軍艦数千艘が再び九州に押し渡った。西国九州の諸将は身命をなげうって戦ったが、異国の猛勢に押されてすでに危うく見えたところ、にわかに大風が吹き起こって大木を吹き倒し、大海の荒波が天を衝き、数千の軍艦はことごとく海底に沈んで海の藻屑となった。さしもの大軍も残らず亡んでわずか三人だけが助かって本国に帰ったという。これこそまさしくわが朝の神風である。

元が攻め寄せてきた際、宇多帝は伊勢の両宮へ勅使を立てて奉幣をささげられ、また、風の神の社に御自筆で御製の歌を捧げ給うたという。その歌は、

 異国ことくにの寄せ来る波は荒くとも それ吹き戻せ伊勢の神風

というものであった。禰宜ねぎがこの歌を捧げて謹んで祈念したところ、不思議なことに風の神の社の扉が自然に開き、社の中から煙のような白い気が立ち昇るように見えた。

そうしたところ、九州で大風が吹いて異国の船を吹き壊したとの注進がもたらされたため、君臣は安堵の思いをなしたという。まことに神国のしるしがあらわれたのである。

たとえ異国のたくらみであっても、ただ仏法を広めるだけの事なら二万や三万の兵は容易に本国に追い返すことができよう。もし無念に思って大軍が来ても彼らの首を取るのはたやすかろう。このたびは命は助けて追い返し、寺は破却して今後切支丹宗は制禁申しつけるべし。」と、お命じになった。

 皆、「上意の趣、かしこまりました」と言って御前を退き、五奉行の面々が南蛮寺の破天連らと伊留岩、普留満を役所に呼び出した。

 何事かと四人はただちに参上したが、宗旨を信仰している者が寺に残った者に、破天連が呼び出された理由をひそかに知らせたので、ヒヤン、ユウスモウ、シュモンをはじめとして残された者達は、今後どんな大変な目に遭うかとおおいに驚き、それぞれの持ち物を掻き集めて皆ちりじりに逃げ去った。

 破天連の四人が役所に着き、参上したことを告げると、役所では、

「その方ども、信長公の御代にお許しがあって一宗を広めてきたが、こころえがたいことがあって太閤殿下の思し召しに叶わず、宗旨制禁を申しつけることになった。その方どもは南蛮国から来た者どもゆえ、御慈悲を以て、便船があり次第本国へ送り届けてくだされることになった。それまではここにとどめおくこととする。さようこころえるべし。」と、申し渡した。

 四人の者はこれを聞いて何も言葉が出ず、ただ失望のありさまであった。

 これ以後四人を獄舎同然のところに閉じ込めておいて、やがてそう対馬守に仰せ付けられて便船で南蛮国に送り返した。

 また、町奉行の疋田三左右衛門に命じて、人数を引き連れて南蛮寺に赴かせ、金銀珠玉をちりばめた堂宇仏閣をことごとく破却させた。

 あれほど繁栄した大寺がその面影もない野原に変わり、こおろぎの巣となってしまったのはあさましいありさまであった。そのうえ、切支丹宗を固く御禁制になったので、内心は信仰している者も御威光に恐れて皆もとの宗旨にもどることになった。

 かのヒヤンは九州に逃れ、髪をのばして総髪になり、千寿院と改名して山伏修験者の身なりをして住んでいた。

 また、ユウスモウは泉州堺に逃げて行き、夷街中の浜というところで島田清安と改名して四年の間医者をしていたが、彼の過去を知る者は一人もいなかった。

 破天連の普留満をはじめとする四人は、徐々に切支丹の法をひろめて機会を見計らっていたところにこのたびの御禁制を命じられ、寺も破却となって南蛮国にすごすごと送り帰されることになった。

 南蛮国に着くと大王に向かって、

「だんだん法も広まって切支丹に帰依する者がおびただしく増えたのに、日本の武将で古今無双の英傑の秀吉という人物が、とうとうわが法を邪宗であると見破られ、このように帰国することになってしまいました。

しかしながら、人民は欲にふけっているので秀吉亡きあとはわが宗旨に帰依する者がきっと多くなるでしょう。御禁制中の今でもなかなか改宗しないことでしょう。

そのうえ、日本人の中に内弟子となって秘術を伝授した者が三人います。時節を待ち、彼らに金銀を送って内通させれば、再び宗門が広まって遂には御本意を遂げることができるに違いありません。」と、申し上げた。

 国王は喜んで、ひそかにその三人に金銀を送った。この頃は、唐土の商船がたくさん日本海に入港していたが、公儀が規制することもなかったので自由に通商していたという。

 さて、かの三人の者は内心耶蘇宗を尊び、さまざまに人々を勧誘し、妖術を以て「てじな」と名付け、酒宴の席などで紙を裂いて鳥に変えたり、また、たちどころに草木の花を咲かせたりして見せたので、人々は邪法とは気付かず、面白いことと思っていつも酒宴の席に招いていた。

 殊に、医者の清安は難病を治療し、山伏の千寿院は祈祷で狐付きを落としたり病気を治療したりしてなにくれとなく人の心をあざむいたため、何かと人々に重宝がられるようになった。それにしたがってひそかに宗門を広め、党を集めていった。まことに恐ろしいたくらみであった。


→ 市橋島田両人の奇術を上覧の事

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