しおピー

右手前腕が義手(19歳〜事故)|42歳|FP|金融相談経験人数3000人以上(「お問い…

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右手前腕が義手(19歳〜事故)|42歳|FP|金融相談経験人数3000人以上(「お問い合わせ」から無料相談可)|保険営業18年|ISFP-A|FUN→GLAY|LIKE→猫、パスタ、コーヒー|https://introducefp.wixstudio.io/shioya

マガジン

  • それでも生きる

    母子家庭で育ち、母が鬱病と糖尿病で仕事ができなくなった事から、私は中学生から働き始め、19歳の時、仕事中の事故で右手前腕を失いました。 右腕を失ってから、更に厳しい現実に何度も直面しました。 「それでも生きる」という選択をしてきたエピソードを、自叙伝として書いています。 「少し疲れちゃったな」という人に、少しでも元気や勇気を届けられたら、幸いです。

最近の記事

それでも生きる(13:レジチームが日本一を獲得するまで③)

 レジで働くメンバーがそれぞれに個性を発揮し、ご来店をされるお客様から、応援のメッセージを頂けることが、時間が経つごとに増えていった。  お店には、お客様の声を書いて頂けるようにノートを置いてあるのだが、そのノートに「◯◯さんにレジを打ってもらうと元気がもらえます」といったような、ありがたい書き込みが何度もあった。  また、レジスタッフのご家族が、お客様としてスーパーマーケットに来店された際、 「妻の笑顔が増えました」  とか 「娘が頑張ることに喜びを覚えて、今までよりテ

    • それでも生きる(12:レジチームが日本一を獲得するまで②)

       スーパーマーケットでレジのチーフとして取り組んだ事は他にもあった。  その内の一つは、個性豊かなパートさんやアルバイトさんに働いてもらう事だ。  小さなスーパーマーケットであり、地域に密着した形で来店客数を増やしていくには、広告や商品のラインナップ、生鮮食品の鮮度なども大事だが、自分は口コミを意識した。  「あのスーパーのレジの人は感じが良い」「商品の取り扱いが丁寧」「元気がある」といったような形で、良い評判が口コミで広がっていけば、来店客数が増えるはず。  そして更

      • それでも生きる(11:レジチームが日本一を獲得するまで①)

         2004年、レジの社員が退職をした関係で、自分にレジ部門の仕事が回ってきた。  当時22歳の自分が、これから自分自身の給与をアップするために、どうやって結果を出したら良いかと考えた。  例えば、生鮮部門や食品部門など、商品を売って利益を得る部門であれば、「売上金額から、仕入れ金額や経費を差し引いた金額」が利益となり、その利益の金額が数字として算出されるので、仕事の結果を数字でアピールする事ができる。  一方、レジ部門は何かを売る訳ではないので、結果を数字でアピールする

        • それでも生きる(10:別れ)

           2002年2月。  右手を失った事故から半年が経ったタイミングで、その出来事は突然やってきた。  スーパーマーケットの仕事を終えた後、午後7時くらいに、友人の誕生日を祝う会が、その友人の家で行われていたので、自分もその会に参加をした。  高校時代からの同級生の友人で、その友人は誕生日を迎えて二十歳になった。  飲酒が可能になるという事で、友人の家には、お酒やケーキなどが用意されていた。  四人の集まりだったが、自分以外の三人は大学に進学をしており、スーパーマーケットの

        それでも生きる(13:レジチームが日本一を獲得するまで③)

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        • それでも生きる
          14本

        記事

          それでも生きる(9:頼らない理由)

           右手を失い、左手だけで母の介護をしていた時、兄の助けは借りないようにしていた。  幼少期の頃に、母や親戚に言われていた言葉がある。  「お母さんとお父さんの良いところは全部お兄ちゃんにいって、ともちゃん(=私)には、お母さんとお父さんの悪いところがいったね」  という言葉である。  例えば、  兄は視力が良くて、自分は視力が悪い。  兄は泳ぐ事ができて、自分は泳げない。  兄はピアノが弾けて、自分は弾けない。  兄は表彰されるくらい絵を描くのが上手で、自分は平凡。  

          それでも生きる(9:頼らない理由)

          それでも生きる(8:母の介護をする障害者)

           退院をして家に戻ってきた。  安心感を得られるかと思ったら、そんな状況ではなかった。  母の糖尿病の症状が悪化しており、歩くのが難しくなっていたのだ。  母は、オムツを着用して生活をするようになっており、また、そのオムツの交換を母自身で行う事が難しく、自分がオムツの交換を行う事となった。  利き手であった右手ほど、左手はまだ器用に動かせる段階ではなく、しかも片手でオムツを交換しなければならない。  なかなかスムーズに作業が進まない。  この時、右手はまだ包帯を巻いてい

          それでも生きる(8:母の介護をする障害者)

          それでも生きる(7:生きるためのリハビリ〜障害者の自覚)

           朝食を食べ終えてから、リハビリルームに向かうと、作業療法士さんに、右腕の痛みと付き合うためのリハビリとして、 「作業療法士さんに右腕を叩いてもらう」  というメニューの追加をお願いした。  『もっと激しい痛み』を体に染み込ませて、その『もっと激しい痛み』に耐えていく内に、日常の痛みを大きな痛みと感じなくさせるという意図があった。  考え方を変えれば、日常の痛みに耐えられるだけの精神力を築くという意図とも言えたのかもしれない。  自分一人でも、右腕を叩いたり殴ったりできるが

          それでも生きる(7:生きるためのリハビリ〜障害者の自覚)

          それでも生きる(6:生きることを選ぶ)

           遺書兼手紙を書いている途中で、スーパーマーケットでアルバイトをしている何人かの女の子とメールのやり取りをしていた。  アルバイトの女の子達には、事故当時の自分の行動や、リハビリに前向きに取り組んでいる様子が噂話として伝わっていて、自分の事が「強い人」というイメージで浸透していた。  その結果、年齢が近い事もあったのか、アルバイトの女の子達がメールで悩みを相談してくるようになっていて、遺書兼手紙を書いている夜も、頻繁にメールが来ていた。  アルバイトの女の子達に、自分が

          それでも生きる(6:生きることを選ぶ)

          それでも生きる(5:絶望〜遺書)

           事故から一週間が経った。  少し前から、気にしている事があった。  事故に合った日に全身麻酔を打って、その麻酔の効果が解けた時からずっと、右腕の痛みが取れないのである。  事故に合った時と同じ、刃で切られるような鋭い痛みと、骨を砕かれるような鈍い痛みが、常時続いているのだ。  手術をして下さった執刀医に、痛みが引かない事を告げると、医師からは 「このタイミングになって痛みが引かないという事は、もうずっと痛みが引く事はない」  という言葉が返ってきた。  心に絶望の闇が広

          それでも生きる(5:絶望〜遺書)

          それでも生きる(4:リハビリ)

           翌朝、目が覚めると、左手でできる事をやろうという強い意識が芽生えていた。  病院で出された朝食は、お箸を使って食べた。  当たり前だが、思うようにお箸でおかずをつかむ事ができなかった。  お箸をおかずに刺して持ち上げたい衝動に駆られたが、我慢した。  お茶碗に残っているご飯が少なくなるに連れて、お米が一粒一粒分かれて、お茶碗に残るようになり、お箸でつかむのが難しくなった。  何粒か残してしまおうかと思ったが、「一度甘えたら、次も甘える」と思って、時間をかけて一粒も残さずに

          それでも生きる(4:リハビリ)

          それでも生きる(3:手術)

           病院に到着すると、応急処置をする部屋にストレッチャーで運ばれ、ベッドの上に移動をすると、4人くらいの人が常にベッドの周りに立っていて、腕の状況を調べるのと、私の個人情報や事故の状況の聞き取りが、同時進行で行われた。  部屋の壁際には、5人ほど、医師になったばかりか、あるいは学生さんと思われる若い人達が立っていて、これから行われる治療のメモを取ろうとしている様子だった。  しばらくトイレに行く事ができなくなるため、治療を始める前に、自然に尿が排出できるように、尿道から膀胱に

          それでも生きる(3:手術)

          それでも生きる(2:右腕を失う)

          中学3年生になり、高校に進学するかどうかを決める事になった。  母親は、高校までは行ってほしいという希望を持っていた。  自分としては、高校卒業という学歴がどれだけ重要なのだろうという疑問を持っていたし、高校の学費も自分自身で稼がないといけない訳で、それなら就職をした方が、生活費に回せるお金も増えるので、高校に進学するのには抵抗があった。  しかし、母親と担任の先生から説得される形で、高校を受験する事にした。  塾には行ってないし、すべり止めの受験をするお金もない。受験勉強に

          それでも生きる(2:右腕を失う)

          それでも生きる(1:13歳からアルバイト)

           十二歳の時だった。  母親の銀行口座の通帳を見ると、残高は数万円しかなかった。  自分が六歳の時に、両親は離婚をしていた。  私と、六歳上の兄は、母親に引き取られ、母子家庭で生活をしてきていた。  母は、教員免許を持っていたので、学校の先生として働き、生計を立てていくつもりだったのだと思う。  しかし、離婚のショックから母は鬱病になり、いつからかは記憶にないが、私が物心ついた時には、仕事をしていない状況だった。  父親の仕送りだけではお金が足りず、貯金を取り崩すような生活を

          それでも生きる(1:13歳からアルバイト)

          それでも生きる(プロローグ)

           「自分が生きてきた人生の経験が誰かの力になれるなら」  そんな思いで、自叙伝を書き始めようと思う。  自分は学業や仕事で飛び抜けた実績を残してきた訳ではない。秀でた才能がある訳でもない。  そもそも、人は生きているだけで、誰かの力になっているはずで、「自分の人生の経験が特別だから、誰かの力になれるように自叙伝を書いてみよう」なんていうのは、おこがましい考え方なのかもしれない。  それでも、今まで出会ってきた人達から背中を押され、自分の半生を書いてみる事にした。  お金がな

          それでも生きる(プロローグ)