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それでも生きる(6:生きることを選ぶ)

 遺書兼手紙を書いている途中で、スーパーマーケットでアルバイトをしている何人かの女の子とメールのやり取りをしていた。

 アルバイトの女の子達には、事故当時の自分の行動や、リハビリに前向きに取り組んでいる様子が噂話として伝わっていて、自分の事が「強い人」というイメージで浸透していた。

 その結果、年齢が近い事もあったのか、アルバイトの女の子達がメールで悩みを相談してくるようになっていて、遺書兼手紙を書いている夜も、頻繁にメールが来ていた。

 アルバイトの女の子達に、自分が死のうとしていると伝える訳にはいかなかったので、基本的に前向きな言葉でメールの返信をしていた。

 すると、その夜に限って、女の子達からこんなメールが届いた。
「退院したら、焼き鳥を一緒に食べに行きたいね」
「仕事に復帰する前に、パスタを食べに行こうよ」
 といったような、お誘いのメールだ。
 どう返信をしたらいいのか、迷った。

「うん、行こう!」
 と返信した場合。
 嘘になる。
 これから死ぬのである。

「俺、今から死ぬから行けないんだ」
 と返信した場合。
 女の子はパニックになる。

 返信しない場合。
「食事に誘ったら、メールが途切れた」
 と女の子は落ち込んでしまうかもしれない。

 そもそも、メールのやり取りをしている時点で、女の子が後になって、自分が死んだ事を知ったら、
「なんで私はあの時、しおピーが死のうとしている事に気が付かなかったんだろう」
 と、自分自身を責めてしまうはずだ。

 そんな思考回路が巡り、女の子への手紙には、「死ぬ事を気付かれないようにメールしていたから、自分自身を責めないようにしてね」といった文言を書き足した。

 女の子達からの食事のお誘いのメールには、
「退院したら、行こうね」
 と返信をした。
 退院しないのだから、嘘にはならない。

 ふと、そこで考えた。

 何で俺は嘘を付きたくないんだ?
 嘘付きと思われたくないからだ。

 死ぬのに?
 どう思われたっていいじゃない?

 何で女の子を傷つけたくないの?
 俺は死ぬけど、これから生きていく女の子には心の傷を残してほしくないからだ。

 それって女の子のため?
 それとも自分のため?
 格好つけてるんじゃないの?

 まだ、余裕、あるんじゃないの?

 病室の机には、何枚もの手紙が書き上がっていた。
 自分には、これだけ手紙を書く相手がいるのだと思った。

 手紙を書く時に、体を支えるのに、右腕に負担をかけたせいで、右腕は更に痛くなっていた。

 そして、思った。
 ずっと、限界と思うくらい右腕が痛かったけど、今は更に痛い、と。
 そういえば、事故に合って、病院に運ばれてきて、消毒をした時は、今よりもっと激しい痛みに襲われていた、と。

 暗く静かな病室で一呼吸つくと、自分は右腕の傷口を右膝に何度も打ちつけた。
 今までの痛みに加えて、更に鋭い痛みと鈍い痛みが同時に襲いかかってくる。
 しかし、右膝に打ちつけるのをやめて、少し時間が経つと、その上乗せの痛みは引いていき、今までの痛みに戻ってくる。
 ただ、その痛みの受け止め方が、今までに比べて負担に感じず、何となく楽に感じた。
 実際は、ただの錯覚なのだろうと思う。
 それでも、こんな考えが芽生えていた。

 そうだ、もっと激しい痛みが続くよりは、事故当時の痛みが続く方が、まだ助かっているではないか、と。

 もっと苦しい現実があってもおかしくない人生を、今、自分は歩んでいるのだ、と。

 今、自分は幸せなんじゃないか、と。

 どうせ死ぬのなら、限界まで命を使い切ってからでいいのではないか、と。

 もう朝になっていた。

 遺書兼手紙は一旦、人目のつかないところに隠して、後になって、他のゴミに隠すようにして、捨てた。

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